uga遊女
大江匡房『遊女記』を中心に据えて



1.遊女の発生

○ 神妻の霊威 巫女は神と交わり、神霊を身につけていると信じられた。その巫女と交わりたい。おこぼれが欲しい。

○ 妻問い婚 女のもとへ男が来なくなると次の男が来る。この仕組みは段取り役がいたのだろう。中媒(ちゅうばい)と言う。

○ 『今昔物語』父母が亡くなると落ちぶれる姫君が生きていくために斡旋される場合がある。地方の男と結婚していく場合とか、都に滞在している期間だけの性愛関係を結ぶ場合とかがあった。

○ 旅客のもてなしに妻女を伽に出す風習があった。来客の多い地方名士は専用の女性を雇ったのだろう。昭和に入っても沖縄では、妻や娘が旅人の一夜の妻となる風習が残っていた。

○ 748 天平二十年 田辺史福麿を大伴家持の館でもてなす時の歌。

4047 垂姫の浦を榜ぎつつ今日の日は楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ
太宰府では遊行女婦が府使に混じって見送りしていた。
右の一首は、遊行女婦(うかれめ)土師(はにし) の歌。

訳)垂姫の浦を漕ぎ続けて今日の一日を楽しく遊んで下さい。後世の語りぐさにしましょう。

○ 798 太政官符 禁出雲国造託神事多百姓女子為妾事

これらの神釆女は後に巫娼に落ちていったのかも知れない。



2.大江匡房 長久二年(1,041) 文章道の大江氏(元は土師氏)の男として誕生。

荘園管理の任 備中、備前、美作、越前の国司・受領として蓄財。

太宰府権帥を四年 幾度となく京と九州を往復 神崎・江口の事情に精通。

1106年以降、『遊女記』・『傀儡子記』を著す。


この時代、道義頽廃・官紀紊乱 の時代であり、一般は、末法思想、権現信仰、熊野詣などと、来世の往生を浄土教にすがったのである。

摂津

3.『遊女記』

 山城国の与渡津から船を大川に浮かべて一日西へ行くと、そこが河陽(山崎)というところである。
 山陽、南海、西海の三道と京都との間を往来する人びとは、誰でもこの通路によらないものはない。


○ 春米(つきまい 年貢)は神崎川ー江口ー淀川経由(筑紫津・淀等津)で京都へ運ばれた。

○ 長岡・平安遷都により、難波の遊女が江口・神崎に移った。
 

 淀川の南北(両岸)には邑々が点在している。淀川の流れを境にして北岸が摂津国、南岸が河内国に分かれていて、摂津市(味生一津屋)付近で淀河から神崎川が分流するが、その辺を江口という。この付近には設営・宗次だ典楽寮(薬・医療を司る役所)の味原の牧(味経の原:乳牛用牧場))や掃部寮(宮廷行事の設営・掃除を司る役所)の大庭庄(蒋(マコモ:稲科の食用植物)を栽培する沼があった)があるぐらいで交通の要衝以外に特に取り立てるほどの土地柄ではない。


○ 延暦四年(785)江口上流から神崎川が掘削され、交通の要路となった。

○ 江口之君堂(寂光寺)は西行と歌問答をした遊女妙(平資盛の娘)が建立したと伝わる。

○ 江口の遊女の遺跡としては、江口から寝屋川に舟便で行け、再興した野崎観音がある。

江口の遊女

野崎観音のパンフレットから。

 摂津国に到ると、神崎や蟹島などの地があり。そこでは(娼家の)門がならび遊女の居宅が連なるように建っていて、人家が密集するほどの賑わいを見せている。


○ 尼崎市神崎の梅ガ枝公園に遊女供養碑が建てられている。

○ かって神崎にあった如来院に法然上人が遊女に法話をした五人の遊女の遺跡碑がある。

○ また、大阪市淀川区加島の長慶山富光寺はその法話をした場所とされる。

 倡女たちは群れをなして扁舟(小端船)に棹さして旅舶の間を漕ぎ廻り、唱歌しながら(泊まり の)客を求めている。艫取女たちが客を呼ぶ声は渓雲(川霧)をとどめるほどであり、遊女たちの謡う今様の調べと鼓の音は水風に余韻として飄(ただよ)っている。

遊女の舟(室津)


○ 『梁塵秘抄』 遊女の好むもの、雑芸、鼓、小端舟、おおがさ、翳(かざし)艫取女(年老いた遊女のなれのはて:鑓手婆)、男の愛祈る百大夫

○ 『梁塵秘抄』 京よりくだりし とけのほる(傀儡女) 島江に屋建てて住しかど そも知らず うち捨てて いかに祭れば百大夫 験なくて 花のみやこへ帰すらん

○ 『梁塵秘抄』 今様 そよそよと しだれ柳に 下がり藤 においも盛り 咲き誇る ゆれて もつれて からみあい そよそよ 風に なびきあう やれやれ うれしや あれあれ たのしや このあそび

○ 『梁塵秘抄』 今様 熊野へゆこう 熊野にね 何が一番 苦しいかって? 安松あたりで 待っているのは 可愛い姫松 五葉松 千里の浜を 過ぎてもね

○ 『傀儡子記』 女は媚術を用い、ながしめを行い腰を折っで歩き歯を見せて笑み、唇に朱、顔に白粉を施している。歌を歌い淫らで、妖しい媚を売る。

○ 『高倉院厳島御幸記』 ことまり(播州室)のあそびども 古きつかの狐の夕暮れにばけたらんように 我れもわれもと御所ちかくさしよす もてなす人もなければ まかり出でぬ

○  『江家次第 八十島祭』 次中宮御料 次斎宮御料 宮主着膝突 西面棒御麻修禊々了以祭物投海 次帰京 於江口遊女参入 纏頭例禄如恒 帰京之後 典侍参内 返上御衣 並申御 祭平安仕畢由

○  今様を唄うのは遊女の表芸、房中に術を弄して男を満足させるのは裏芸。

 こうした賑わいに経廻の人(旅行者)もついに家庭のことなど忘れ勝ちになってしまうのである。(神崎川両岸)の洲には蘆が生い茂り、川口の水面には白波が花のように波立ってまるで絵のような美しさである。川面には釣りを楽しむ翁の船や船客相手の酒食を商う小商人(あきんど)の船(近世の「くらわんか船」のようなもの)も多くみられ、それに旅舶や遊女達の扁船も混じって舳と艫が接するような混雑ぶりで、殆ど水面が見えないほどの繁昌ぶりである。まさに天下第一の楽しき地(ところ)といえよう。

○ 京都に都が置かれると、漁色に飽くことを知らない貴族群が遊興の日々を送っていた。  

 江口では観音という名妓を祖(姐さん株の妓女 宗・長者も同類と思われる)として、以下、中君・□□□・小馬・白女・主殿などの(歴代)名妓がおり、また蟹島では、宮城という名妓を宗(しゅう)以下、如意・香爐・孔雀・立枚などの名妓達がいる。一方、神崎では、河菰姫という名妓を長者として、以下、狐蘇(こそ=許曽)・宮子・力命・小児などの名妓達がいる。


○ 遊女は自らの計算によって、遊女稼業を営んでいた。情夫程度の用心棒がいた。

○ 『見遊女詩序』有夫婿者 責以其少淫奔之行 有父母者 只願以其多徴嬖之幸
平安時代は船を手当したりする資本家もいたのだろう。

○ 『梁塵秘抄』女の盛りなるは 一四五六歳 二十三四 とか 三十四五 にし成りぬれば紅葉の下葉に異ならず (紅葉の下葉とは大年増を意味する)

○ 『梁塵秘抄』遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声きけば わが身さえこそゆるがるれ

(訳)オトコのオモチャと生まれてきたわ さわられ なでられ 抱かれるために たまにゃひとりで 生きたくもなるが こみあげる 悲しみ なんとしょう
 

 これらの名妓はいずれも倶尸羅(インドの黒ホトトギス、好色鳥)の再誕のような美声の持ち主であり、また衣通姫(允恭紀にみえる絶世の美人)の生まれ変わりかと思わせる美女たちである。
こうした名妓たちに出逢うと、男というものはとかく美人がお好きなようで、上は身分の高い郷相(公卿)から下は一般庶民に至るまで、宴席を共にし同衾すれば忽ち夢中になって身も心も情を通じてしまうのである。
 そうしたことから遊女の中には、身分ある人の妻や妾となって死ぬまで愛せられ、一生の幸せを得た者もいたという。たとい賢人や君子といわれる者でも男というものはとかく好き者が多く、このことだけは避けて通ることができないようである。(遊女たちの信仰を集め、遊女たちがよく参詣した場所は)南は則ち住吉、西は則ち広田が多く、そこで遊女たちは徴嬖(客がつくこと)の幸多きことを祈願したのである。ことに遊女たちの願掛けには、百大夫すなわち祖神(神仏混淆時代で百大夫と道祖神を同一視しているが滝川博士によると、元来、百大夫は陰陽道の神とされる。)への信仰が強く、願掛けに遊女たちは人ごとに百大夫の像を熱心に作り、それを神社に奉納したのであるが、その数は百千にも及んだという。その効果は相当あったようで、お客の心も蕩(うご)き、お声もかなりかかったようである。これもまた遊女社会の古い習俗である。



百大夫を祀る神社 百大夫は少女の姿の神

西宮蛭子摂社  祠あり。
京都祇園八坂神社摂社えびす神社の境内に百大夫社
南淡路市市三条 三条八幡 脇宮戎社に合祀 江戸時代か
大阪市天王寺区 生国魂神社摂社浄瑠璃神社に合祀  明治時代か

文献上存在を確認できる。

西宮市 広田神社 末社
亀岡市保津町 請田神社末社  大井河 傀儡居住上一丁許
行橋市長尾 百太夫神社
京都府八幡市 石清水八幡末社
滋賀県大津市坂本 日吉大社末社

社祠は存在するが社名、祭神が転移。

宇佐市 宇佐八幡宮境外末社 百体殿  鎮座地の小字は百太夫 クグツの化粧井戸あり
豊前市求菩提 求菩提山護国寺の諸堂中の一 百太夫殿
田川郡香春町  香春岳 百太夫社
宇佐市長州 八坂神社(元宿神社 きんだんの宮)境内の薬師堂に合祀
 

 長保年中、東三條院(円融天皇女御、一条天皇母)が住吉大社・天王寺に参詣された時(『日本紀略』によると長保二年(1000)三月二〇日のこと)、その帰途(淀川を渡る時に遊女たちが群集し、扈従していた殿上人や女房への施しが行なわれたがその折り)禅定大相国藤原道長は殊に小観音という名の遊女に寵愛をお与えになったという。



○ 『日本紀略』 一条天皇長保二年(1000)三月 廿日丁酉,東三條院參詣住吉社.先參詣石清水八幡宮、四天王寺. 廿三日庚子,發遣六社奉幣使.伊、石、賀、平、松、稻.依造宮也.廿六日癸卯 今日,東三條院.詮子.御淀河之間,遊女群參.給米百石.殿上人及女房有纏頭事.又左大臣.道長.給米五十石.

○ 遊女は何故観音か 遊女の癒し機能、身を犠牲にして男たちに奉仕する美しい女たち。観音とも普賢菩薩とも映った。

○ 野崎観音は江口の遊女たちが再興したと伝わっている。

○ 『謡曲江口』天王寺参詣途中の僧が江口に寄った際、遊女の霊が現れ、舟遊びを見せ、棹の歌を謡う。そこで彼女は六道流転(輪廻を繰り返す)の様と罪業迷妄の身を嘆く。
さらに、「人が皆、六塵の境(六識の対象の境:色境など)に迷って六根(六種の感覚:眼 、舌、意など)の罪を作ってしまうのも」迷う心から生じるのだと言う。」そうして普賢菩薩となって西の空へ昇天した。

 

 また長元年中上東門院(一条天皇皇后、後一条・後朱雀両天皇母、藤原道長の女彰子)がまた御 行された時(『日本紀略』長元四年(1031)、宇治大相国藤原頼道は、中君という遊女を賞でられたという。さらに延久年間(延久五年(1073))、後三條院(前年末に白河天皇に譲位されたばかりの後三條太上天皇)が同様に住吉大社・四天王寺へ御幸された折りにも、狛犬や犢(こうし)らの遊女たちが船を並べて群参し、(その艶やかなる光景は素晴らしく)人々はこれを神仙といい、近代の勝事(近来稀にみる素晴らしい出来事)と讃えた。



○ 遊女の舟上でことに及ぶこともあった。

○ 舟の中に さしも浮きたる 契りまで うらやむほどの えにぞありける 有家朝臣

 

 一般の人々が言うには、雲客風人(都の貴紳、雲上人や風雅の人)が遊女を賞でるために京洛よ り河陽に到るときは、専ら江口の遊女を愛したようで、刺史以下(地方の国司以下の役人や庶民)が西国より河に入る時には専ら神崎の遊女を愛したようである。いずれも始見(始めてまみゆる)をもって遊んだようであるが、要するに近場で遊んだということである。遊女たちが得るところのもの即ち収入のことを団手(だんしゅ、纏頭・玉代・花代・線香代などの類か)といった。均分の時に及んでは遊女たちは恥じらいや慎みなどをかなぐり捨て少しでも団手の取り分を増やそうとして奮励努力するさまは傍目から見ると、まるで喧嘩や乱闘をしているかのように見えるのである。
或るときには麁絹(綾のない生地)の尺寸までの細かい裂地(麁絹を均等に切断して分け合うこと)を奪いあい、また或るときには米や粳の斗升を厳密し計って分け合うのである。考えてみるに、まさしく『史記』陳丞相世家や『前漢書』陳平伝にみえる陳平が肉を分つときに均等に公平な分配を行った故事をみる思いがし、遊女社会では団手の分配を均等に行う風習があるようだ。



○ 『日本紀略』遊女群参 給米百石  総花的に花代を与えると分配で柳眉をつりあげる。

○ 『扶桑略記』指江口御之間 遊行之女船泛来 歌曲参差 為鱗其衒売之意  仰讃州米百石給之

○ 遊女は共同体を形成していたが、個人事業主で、収益の配分には目を光らせた。

○ 『古今著聞集』道因法師 六日 出神崎 於高浜 召遊君六人 纏頭 長者金寿 三領単衣(仕立てられた小袿(こうちぎ) 熊野(江口) 伊世三領(仮縫いの大袿(おおうちぎ)口) 小最 輪鶴 各一領 此外伊与守給米 云々

○ 国司 五位の赤トンボと蔑まれたのは浅緋の服を着ていたから。しかし、中央貴族より官位は低いが、別に公廨稲の分配という収入があり、遊女にはもてた。国司は神崎に多く、派手。江口は京の貴族で地味。

○ 『尾張国郡司百姓等解文』三十一条の訴え 正規の納期以前に税を徴収。農民から徴収あった調(国の特産品)のうち、良質な物を着服して、粗悪な物を中央へ進上。農民に貸与すべき米穀を着服。池・溝の修理費用を着服。自らの郎党・従者を郡司・農民の家に押し入らせてめぼしい物を奪う。運送負担の強制。等々

○ これらは、遊女と遊びたいためか。 

 豪家(摂関・公卿など権門・勢家と呼ばれた家柄の良い家)の侍女(豪家に仕える女性、家伎として芸能を教育されたマカタチなど)の中には、自ら求めて遊女社会に身を置き上下の船に宿る者もいたが、これを湍繕(速く繕ろう転じて売春のみを専門とする所謂ショートのことか)または出遊(アルバイトの遊女の意味か)といった。

○注 マカタチ 侍女 侍婢 貴人につきそう女

遊女の子でも偉くなる。
源義平 橋本(八幡市) 源義朝の長男、鎌倉悪源太。
源範頼 遠江国池田宿の遊女が母 頼朝の異母弟
徳大寺実基 白拍子五条夜叉の子 太政大臣。
藤原信能 江口の遊女慈氏 従三位・参議 
藤原兼高 江口 木姫 正三位・参議
頼朝・義経 白拍子常磐御前

 

 少分の贈(少額の団手)を得て一日の資としたのである。ここに髻俵(出遊と判るような髪型か )・絅絹(出遊と判る服装か)の名の由来がある。アルバイト遊女の船の舳先には、いずれも登指(高い柱、大笠と棹)というものが建てられ、それに九分之物(出遊と判る標識、丸いものか)が掲げられて一見して直ちにアルバイト遊女の船であることが判るようになっていた。これも遊女社会の慣習である。

 (遊女社会のことは)既に文章博士大江以言の「見遊女詩序」に詳しいが、本文ではそれ以外に気付いた点を若干付け加えてみただけである。

                            『遊女記』終


源平時代に江口神崎は衰えはじめた。
院政時代の末期に白拍子なる舞妓が出現。
清盛が都を福原に移した。
頼朝が鎌倉に幕府を開いた。
遊女は東海道と播州の室津へ移動した。
江口神崎の残存遊女屋は江戸初期に佐渡島町に移った。


参考文献
『古代・中世の芸能と買売春』 服藤早苗
『遊行女婦・遊女・傀儡女』 滝川政次郎
『万葉集』 中西進

大坂の色町

傀儡子記

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