UGA 性について

江戸時代の湯屋の風景

 裸への羞恥心は記紀万葉が書かれた時代ー奈良時代前後ーはあったようだ。しかし江戸時代の終わり、各地に外国人がやって来て驚いたことの一つに、日本人は裸への羞恥心を持っていないということだった。混浴は当たり前、風呂あがりには、そのままの姿で家まで歩いていく。だれもなんとも思わなかったと言う。極端な話だが、京から大坂へ裸のまま歩いた武士がいたという。奈良時代から江戸時代までの間に、世の中が千々に乱れた戦国時代などがあり、羞恥心が失われたのではあるまいか。

裸の女神

江ノ島の裸弁天

『丹後国風土記』(逸文) 奈具の社
 比治山の真奈井に天女が降りてきて水浴びをしていた。老夫婦が一人の衣装を取った。天女は天に帰れず、一緒に住むことになった。この天女は豊宇賀能売命である。

『近江国風土記』(逸文) 天の八女が白鳥となって降りてきて、水浴をしていた。伊香刀美は一人の天女の羽衣を取った。帰れずに夫婦となった。後に見つけて天に帰った。子ども達は伊香連の祖となった。

『駿河国風土記』(逸文) 三保の松原の伝承。

 各地にこのような天女伝説が残っている。天女即ち女神の降臨のシーンと言える。姿は裸である。

裸の巫女

八幡古俵神社の神功皇后と裸の豊玉比売。

「神社伝承」和歌山県日高郡川辺町江川 丹生神社の笑い祭
 この奇祭は和佐地区に古くより伝わる祭事であり、県指定無形民俗文化財を受けている。
 神々は10月に出雲に行くが、ここの水の女神は昼寝で遅れてしまったので、あわてて腰裳一枚で走ろうとしたが、神木にひっかけてはずしてしまった。それを氏子達が声を揃えて笑い騒いだ。それで女神は恥ずかしがって、一年の豊富な水を約束した。

 これは豊作儀礼であり、昔の巫女達の裸祭りが変形したものとされている。

『古事記』天照大神を天石戸からお出まし頂くの段

 天宇受売命(アメノウズメノミコト)、天の香山の天の日影(ヒカゲ)を手次(タスキ)にかけて、天の真拆(マサキ)を鬘(カヅラ)として、天の香山の小竹葉(ササバ)を手草(タグサ)に結(ユ)ひて、天の石屋戸にうけ伏せ、蹈(フ)みとどろこし神懸(カムガカ)りして、胸乳(ムナチ)をかき出で、裳緒(モヒモ)をほとにおし垂れき。

 これは、神降ろしの神事であり、氏子達が笑い騒いでいる場所を神は好まれる。

『日本書紀』(雄略天皇九年)
 凡河内直香賜と采女を遣わして胸方神を祀らされた。香賜は神域に行って、今にも神事を行おうとする時に、采女を犯した。
 采女とは、神および現神(天皇)に仕える巫女で、貢いだ国々の至上神に仕える最高の巫女である。

 香賜と采女とは長い旅をしてきて、何故、祭りの寸前に采女を犯したのだろうか。慎みの期間は香賜をして禁欲を強いて来た。これが、裸の采女を見て、頭に血が上ったのだろう。おそらく、祭りの後なら、殺されることはなかったのだろう。

 釆女との姦通で殺された例はこれだけが『日本書紀』の記事である。

『日本書紀』(雄略天皇十三年) 
 木工の猪名部眞根は石を台にして、斧で木を削っていた。終日誤ることはなかった。天皇は「いつも誤ることはないのか?」と問われた。眞根は、「決して誤ることはありません。」と答えた。そこで天皇は采女をフンドシ姿にして、相撲をとらせた。眞根はそれを見ながら削ったが、斧を石に当ててしまった。

『日本書紀』(仲哀天皇九年)
 皇后は自ら神主となり、武内宿禰に命じて琴をひかせ、中臣烏賊津使主を審神者(さにわ)とした。
 『住吉大社神代記』皇后と住吉大神との間に密事があった。俗に言う「夫婦之密事」である。

 御子神を儲けた女性は、神母(或は人母、聖母とも云う)と称して特に崇敬を受け、往々神として祭られた。九州には聖母神社が10社以上鎮座している。祭神は神功皇后。また、高知には神母神社が30社以上鎮座している。中でも、長岡郡長岡村大字陣山小字神母の神母神社では、今でも性神(セックス・ゴッド)として知られている。なお、神母は「いげ」と読まれる場合が多い。隣の阿波では大宜津比賣神であるが、大宜は伊気と変わったのではなかろうか。

『日本書紀』(舒明天皇八年) 釆女 釆女を奸せる者を悉く糾弾し罪に処す。


斎宮


 斎宮とは天皇の皇女で伊勢の大神に仕える独身の巫女。
 歴史的には、天武の皇女の大伯皇女に始まり、後醍醐天皇の皇女の祥子内親王で終わる。
 任命されると、宮中から山の入り口の野へ赴き、三年間の謹慎生活を送る。

斎宮の密通


『日本書紀』略天皇三年
 阿閇臣國見が、栲幡皇女と湯人である廬城部連武彦を讒言し、「武彦は皇女を妊娠させました。」と言った。武彦の父はこの流言を聞き、禍が我が身に及ぶことを警戒し、武彦を誘い出して殺した。
 天皇は使者を遣わして、皇女を調べた。皇女は、「私は知りません。」と答えた。皇女は神鏡を持ち出し、五十鈴川のほとりに来て、鏡を埋めてから首をくくって死んだ。
 皇女の腹には石が入っていた。

『日本書紀』欽明天皇二年
 磐隈皇女(夢皇女とも言う)初め伊勢大神に仕えた。後に茨城皇子に犯されたので解任された。

『日本書紀』敏達天皇七年
 菟道皇女は伊勢祠に仕えたが、池邊皇子に奸されたことが明らかになったので解任された。

『伊勢物語』(六十九段 狩の使)在原業平は平城天皇の孫。9世紀の貴族。
 伊勢の国に狩りの使いに行った業平は斎宮と夢のような逢瀬の一夜を過ごす。
 母から遠縁の人だから、「常の使よりはよくお世話をするように」と言われた斎宮は、その通りにこの使に尽くす。すると二日目の晩、男が「どうしても逢おう。」と言ってきた。人目があるので、女は応じるわけにはゆかない。ところが、真夜中になって、女が部屋の前に立っているではないか。男は嬉しくなって、「わが寝るところに率て入りて。」と時を過ごした。女は帰っていった。翌朝女からまた後朝の文が届く。そこには「君や来し我は行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てかさめてか。」と書かれていた。それに対して男は「夢うつつとは今宵定めよ。」と返事してもう一度逢おうとするが、結局その機会もないまま次ぎの尾張の国に旅立たねばならなかった。

花山天皇 寛和二年(986)伊勢齋王済子、野宮において滝口武士平致光と密通の由、風聞あり。

鎌倉時代 通海の『太神宮参詣記』夜な夜な参宮の寝床にクチナワの鱗が落ちていたとの話を聞いた。
 この頃までは アマテラスは雷神にして蛇体とのイメージが流布していたのだろう。斎宮が女ならば、訪れる神は男神である、との幻想を持つ。斎宮は男神を待つ。



性神の磐座


船山神社 奈良県生駒郡平群町大字三里字船山



九日神社 奈良県桜井市芝812 



宇賀神社 奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志



素盞嗚神社 奈良県桜井市江包 大西

 


玉祖神社 八尾市神立443番地



幸神社 京都市上京区寺町通今出川上ル西入ル幸神町



岩屋神社 京都市山科区大宅中小路町67 



裸石神社 神戸市西区神出町東



男明神、女明神 龍野市誉田町



温泉神社 長崎県南高来郡小浜町雲仙319番地

神奈備にようこそ