幸神社
京都市上京区寺町通今出川上ル西入ル幸神町303

鳥居


交通
御所北東隅北200m mapfan

祭神
猿田彦大神
配祀 天之御中主神、少彦名神、皇孫瓊瓊杵尊、事代主命、可美葦牙彦舅神、天照皇大御神、大國主命、天鈿女命

拝殿

由緒
 もと現地より北東300mの賀茂川畔に祀られていた道祖神で、出雲路幸神と呼ばれていた。
 創祀は『山州名跡志』に「朱雀院御宇天慶二年に勧請する所」とあり、『雍州府志』は「桓武天皇の延暦年中(782〜805)に勧請」とする。

 『源平盛衰記』には、奥州名取郡笠島(名取市愛島笠島字西台2)の道祖神は都賀茂川原西一条北辺におわする出雲路の道祖神の女とある。ここには佐倍乃神社が鎮座、例祭日には出雲流の「道祖神神楽」が奉納されるようである。名取郡の式内小社。

 出雲路幸神社は応仁・文明の頃兵火に罹り、それ以後に当地に遷座したようである。御所の鬼門に鎮座、これを守る神ともされる。

本殿

たたずまい
 御所の東側の道を今出川通りを越えて北上すると鳥居に突き当たりる。ごちゃごちゃと狭い印象である。多分宮司宅兼社務所が境内スペースをとっているからだろう。拝殿の前には所狭しと絵馬が架けられている。

 境内の北東隅に神石が祀られている。「大日本最初御降臨旧跡地 猿田彦御神石」と記した神石である。横に疫神社の小祠が鎮座。

神石

本殿前の石

お祭り 9月 16日 秋季例大祭

平成祭礼データ

 当社の祭祀は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年御再興、桓武天皇延暦十三年平安京の鬼門除守護神として御造営あらせらる。延喜式によれば、外国使臣の来朝に際し洛中洛外の境たる当所に於て、使臣等の入京に先立ち、祓の麻を賜ひ神事を修せしめられたことが見える。現今諸方の神社で御礼(大麻)御守(小麻)を授与する事の原形である今も内裏艮の隅に、祓の忌串を案じ、遙に東北の天に向ひ、雲上飛翔の御神像安置され、此処を猿ケ辻と称することは、世人のよく織るところで、当社神殿の艮(東北)の眉間にも、同じ趣きの御神像を拝することが出来る。
 都の東北隅に「さいのかみ」を祀ることは、奈良の都以来のことで、当時すでに地方の駅に於ても、このことが行はれた。
 朱雀天皇の天慶二年御分霊を内裏に奉遷、庚申祭御執行のこと「百練抄」並に社蔵の旧記に見え、一条天皇の長保元年、天慶同様の御儀御執行のこと社蔵旧記に見える。
 近衛天皇久安四年三月四日皇宮御炎上と同日御類焼のこと「本朝世記」に見え、後堀河天皇の嘉緑二年、近隣民家の出火に御類焼のこと「明月記」によれば当時出雲路道祖神と呼ばれていたことがわかる。御社号に幸の字を宛てた時代は判明しないが、天和二年神主奥村右京の記した縁起、権律師長学院光栄の筆になる縁起に現社号を見ることが出来る。
 当社の御分霊を祀りし伝承を持つ神社に、宮城県名取郡に正一位笠島道祖神(式内佐具叡神社)があり東京都西多摩郡幸神の幸神神社は、建武二年御分霊を奉斎せる由を伝へている。
 応仁の乱に細川勝元この地に陣し、西の山名宗全と合戦、その兵火によって鳥有に帰し、社地亦荒廃にまかせたが、祭祀の絶ゆることなく受け継がれ、後小松天皇の応永年間、安部左近将監季英当社預りと見え、後土御門天皇の応仁年間には、安部伊賀守季音、安部大蔵亟季敦等当社預りたりしことが当社の旧記に見える。

 当社はその封境方一町と伝へるが、応仁の兵火の後、慶長年間豊臣秀吉京都を整備するに際し、封域を割き縮小せしめられ、陰陽頭の私邸の神祠の如くして、僅に命脈を保つにすぎなかった。天和二年、会津藩出身の奥村右京仲之神主として復興、次いで東山天皇宝永二年、僧光栄立願再建に当り西隣を社地に編入、同三年神輿奉造。同五年類焼の厄に逢ひ皆鳥有に帰したが、翌六年これを再建、東隣を購ひ社地に加へ、やや面目をい改め、鳥居建設、京極宮扁額御寄進あらせらる。寛保三年桜町天皇神輿御寄進、寛延二年積年の功により社僧光栄権律師を勅許せらる。天明八年京都の大火に御類焼御再建、天明四年両部を廃し神務職を復す。明治六年村社に列格、明治二十五年公費供進社に指定、年三度の官祭に幣帛供進参向す。昭和二十年十二月十五日神社神道官制廃止、その後、有志の護持厚く神社本庁に所属し今日に至る。
 以上

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H17.7.8