湧出宮・和伎座天乃夫岐賣神社
(わきにますあめのふきめ)
木津川市山城町平尾里屋敷54 its-mo

一の鳥居(西向き)

交通
JP奈良線 棚倉駅東側

祭神
天乃夫岐賣命、田凝姫命、市杵嶋姫命、湍津姫命
本殿東側から 熊野神社「素盞男命」、市杵嶋神社「市杵嶋姫命」、天神社「菅原道眞」、稲荷社
本殿西側手前から 春日神社「天兒屋根命」、熱田神社「日本武尊」、日枝神社「大山咋命」、八幡宮「應神天皇」

二の鳥居(南向き)

由緒

 創建は今より1200年前の称徳天皇天平神護二(766)年、伊勢国五十鈴川の畔より、御祭神としてこの地に勧請したと伝わる。
 天乃夫岐賣命とは天照大神の御魂であるとされる。後に宗像三女神を伊勢より勧請、併祀した。

 大神をこの地に勧請したところ、一夜にして森が湧きだし四町八反余りが神域となったという。湧出宮という謂われである。

 山城の祈雨神十一社の一社、延喜式八十五座の一として朝野の崇敬を受けた

居籠舎

たたずまい
 
 たしかに湧きだしたような大きく深い森である。
 居籠祭の最終日の午前中に参詣したのだが、神職が拝殿内で座布団などを並べての準備をしていた。 参道には露店が並んでいたが、その頃にはまだ参詣者は殆どいないので、実に暇そうにしていた。

 写真は2011年6月に参詣した際に写したもの。

本殿


お祭り

 毎年2月15日から3日間執り行われる居籠祭(いごもりまつり)は、昭和58年に「棚倉の居籠祭」として京都府指定文化財の第1号で指定された。 更に、後昭和61年には涌出宮(わきでのみや)の他の宮座行事とともに「涌出宮の宮座行事」として国の重要無形文化財に指定された。
 湧出宮の氏子知己は綺田、平尾地区で、居籠祭は与力座、尾崎座、歩射座(びしゃざ)の4つの宮座によって執り行わる。 神主を補佐して居籠祭をとりしきる役に与力座一老があたる。 その他、饗応を受け持つ「いたもと」と「給仕」、呼び使いの「もりまわし」や「七度半(ひつたはんの使い」の役、「御供(ごく)炊き」の役、「そのいち」と呼ばれるみこ、「ボーヨ」「とも」と呼ぶ幼児の役などに与力座があたる。
 古川座は、古川一族の座で、伊勢から下ってきた神を出迎えた一族だとされる。長老10人が業襟(すおう)姿で式に列席する。
 尾崎座はやはり古川一族の座で、座衆4人が神姿で式に列席する。
 歩射座は、居籠祭にあたって警護を受け持ったとされる座で、年長者10人が式に列席する。

 毎年2月に入ると、居籠祭の準備が始まり、11日には涌出宮に与力座衆が集まって祭の役割分担決めと、松苗・おかぎづくりを始める。 この松苗とおかぎは、祭の各座衆と一般参拝者に配られ、春に苗代の水口にまつられる。 同じ11日に歩射座の当屋でかんじょ縄がつくられる。
 居籠祭前夜の14日の深夜には、与力座の者2人が塚11ヶ所をまわる「もりまわし」が行われる。 これは、祭への神々の招待というべきもので、祭の60日前にあたる12月16日の深夜にも行われる。

 15日には与力座衆によって饗応の儀に使う箸(はし)を15組ほどつくる「箸けずり」と「たいまつづくり」が行われる。 この日古川座の当屋でかんじょ縄づくりが行われる。
 15日の夜7時ごろになると、涌出宮に古川衆が集まってくる。拝殿には神殿に向かって中央に古川衆、左に尾崎座、右に歩射座が座り、神殿の前に神主と与力座一老が座り、「いたもと」の指示で与力座による饗応の儀式が進められる。 饗応の儀が終了するころ与力座の一人が火打ち石で松明に点火し、たいまつの儀が始めまる。 神主と与力座一老は、松明の前に並ぶ。松明の足がはらわれた後、昔は松明を引きずりまわしたが、今は松明の一部を門の外に出し、神主が祝詞をあげ、ごまいさんまいを行う。 この日の深夜、神主が与力座衆の用意した野道具のミニチュアを神殿からささげ、野塚におさめに行く。この野塚神事は、16日・17日の深夜にも行われ、各日それぞれ違う野塚におさめに行く。この姿を見てはいけないそうである。

 16日には歩射座と古川座からかんじょ縄が奉納されます。17日には朝、与力座の古老が集まり、饗応の儀をはじめとする午後の該当座の一人が古川座衆の総本家に七度半の使いに出向く。 最初のあいさつと、帰りに6回半のあいさつをすることから、このように呼ばれる。
 この日の午後、居籠祭のクライマックスの饗応の儀お田植え神事が行われる。午後2時過ぎ、各座衆が15日夜と同じように祭殿に座り、さらに「そのいち」「ボーヨ」「とも」の席も用意される。 15日と同じく、「いたもと」の指示で給仕が進められ、御供と御酒が各座衆らに配られ、終わると「盃ごと」になり三三九度の盃の古い作法を伝える作法で執り行われる。 盃をひいた後、膳が古川座衆・神主・そのいちの前に出され、京めしが配られ、汁を出し、最後に湯を出して饗応儀が終わる。 次いでお田植え神事が行われる。

 17日の夕刻に与力座衆が門のかんじょ縄を新しいものに取り替え、深夜に御供炊き神事をし、かしの葉に盛りつけられた御供を神殿と涌出宮東側の四ツ塚に供えられる。 明け方に四ツ塚を見に出かけ、御供がなくなっていれば、いみこもりの大願が成就したわけで、御供炊きにあたった2人があけの太鼓をたたきながら在所を歩き、居籠が無事終了したことを知らせる。

 江戸時代において居籠祭は、旧暦1月の2の午の日から行われていましたが、時期としてはほぼ今の2月中旬にあたる。 このように居籠祭は、その年1年の稲作の豊作を予祝する農耕儀礼として、まだ、中世村落における祭祀の姿を今に伝える行事です。

由緒 平成祭礼データから

湧出宮縁起


 古来より天下の奇祭「いごもり祭」で世に知られる湧出宮は、JR奈良線棚倉駅前の鎮守の森に鎮座する古社である。(旧社格は「延喜式内社・郷社」)創建は今より1200年余り前の、称徳天皇の天平神護2年(766)に、伊勢国渡会郡五十鈴川の畔より、御祭人として此の地に勧請申し上げたと伝えられている。社蔵の文書(和伎座天乃夫伎賣大明神源縁録)によれば、御祭神天乃夫伎賣命とは、天照大神の御魂であると記されている。恐れ多く神秘なるが故にかく称し上げたとある。後に田凝姫命、市杵島姫、瑞津姫命を同じく伊勢より勧請して併祀したとある。尚、この三女神は、大神とスサノオの命との誓約によってお生まれになった御子である。(涌き出宮大明神社記)
 大神を此の地に奉遷した処、此の辺は一夜にして森が涌きだし4町8反余りが、神域とか化したので、世の人は恐しく、御神徳を称えて、「涌き出森」と呼称したと言い伝えられている。山城の国祈雨神11社の1社として、昔から朝野の崇敬を集めてきた。清和天皇(859)や、宇多天皇(889)が奉幣使を立て、雨乞い祈願をされえたところ、霊験により降雨があったと記されている。本殿は社蔵の「堂社氏子僧遷宮記」よれば、現本殿は元禄5年(1692)の造営で、「三間社・流れ造り」で屋根には「千木・勝男木」置くとある。それ以前には中世の戦火で度々焼失し、源頼朝や、後小松朝、後柏原朝の御世にも再建された。昭和50年には本殿の屋根が檜皮葺から銅板葺き変わり、現在の形になった。平成3年には氏子、崇敬者の浄財拠出により、神楽殿・社務所が全面改築新装された。
 涌出森境内一帯は、弥生期の居住跡として弥生式土器・石器等が出土した。また、社無所改築前の発掘調査では、竪穴式住居跡も確認された。
 以上

京都山城寺院神社大事典(平凡社)、日本の神々5 白水社

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