吉田神道の鳥瞰 『神道史』清原貞雄著 から
我が国の神道を三種に分類する。
第一は本迹縁起神道 或いは 社例縁起神道
第二は両部習合神道
第三は元本宗源神道
がそれである。本迹縁起神道と云うのはどう云うものであるかと云うに、或る神社に於いて、其の由緒に就いて色々の秘伝を設けて、其の一社に相伝し、或いは其の神社の本地佛に従って適当の佛教的の祭儀を定めたものである。
両部習合神道とは伊勢両宮を真言の胎蔵界及び金剛界の両界曼茶羅に習合し、其の曼茶羅の中に含まれている所の諸佛を我が国の多くの神々に習合して説くものを云うのである。之は真言宗と習合した所の神道であって、鎌倉時代から既に発達の緒を見た。兼倶に至って始めて之れを両部神道と称へたのであって、爾来此の種の神道は専ら両部神道の名前を以て呼ばれることになったのである。伝教、弘法、慈覚、智証の四大師に依って立てられた神道なるが故に之れを大師流の神道とも云うと妙法要集に記している。
第一、第二の神道は、何れも卜部家から見て異端であって、之等に対し吉田家に於いて立つる所の神道を元本宗源神道と云うのである。然からば元本宗源神道とは如何なるものであるかと云うに、之は陰陽不測の元元を明らかにし、一念未生の大本を明し、又一気未分の元神を明し、和光同塵の神化を明かすのである。これを唯一神道とも云う、とある。
難な。何のこっちゃら。
天地開闢以前の古を明らかにし、神々が万民に対して平等に恩恵を与える、と云うことを説く神道とでも要約しておくましょう。引用続けます。
この唯一神道を更に顕露教と隠幽教との二つに分ける。斯く顕露と隠幽との二つに分けたのは、神話の中に大国主命が中つ国を天神に奉った時に、今は顕露の事をすべて天つ神に譲り、自分は隠事を掌ると云ったとある所から思いついたものであろうが、其の意味は違っている。
顕露教とはどう云うことであろうと云うと、先代旧事記、古事記、日本書紀(之を吉田神道では三部本書と云う)に依って、天地の開闢、神代の元由、王臣の系譜等を述ぶるもので、之れに關する祭を行ふ場所を斎廷と云ひ、叉外場と云ふ。之れを顯露教と呼んだ理由は、之等奮事紀や日本書紀などは何人も之れを讃む事の出來るものであつて、秘密にする訳で無いからである。隠幽教と云ふのは、所謂三部神経に依つて立てた教である。三部神経とは天元神変神妙経、地元神通神妙経、人元神力神妙経の事であると云ふ。此の三書なるものは勿論吉田家で作つたもので、或は吉田家に昔からあつたものでもなく、此の妙法要集を書くに就て始めて作つたものであるかも知れない。此の所謂隠幽教に基いて、天地人三才を霊応せしめ、三元三妙の加持を行ふ。之れを行ふ場所を内場叉は内清浄の道場と云ふ。此の内場を更に萬宗壇と諸源壇との二部に分つ。
之れは眞言宗の方の金剛界胎藏界の雨曼茶羅に依つて立てたものである。
此の内場に於て行ふ加持に於ては十八神道なるものを立つる。十八神道とは何であるかと云ふに、天の六神道・地の六神道、人の六神道、之れを合せて十八神道と云ふのである。天地人を霊応せしむると云ふのは蓋し之から來たものである。
右天の六神道、地の六神道、人の六神道等に就ては夫々共の名目を撃げて説明して居るが、それらは全く牽強付会であつて何等の眞理も含んではいないのであるから一々學げない事にする。
次に三元三妙の加持とはどう云ふ事であるかと云ふに、三元とは天元地元人元の事、三妙とは天妙地妙人妙の事である。三妙の中で天妙は神変妙、地妙は神通神、人妙は神力神と称し、此の三神に対して各々妙壇が設けられる。天妙に属するものを神変妙壇、地妙に属するものを神通妙壇、人妙に属するものを神力妙壇と云う。
壇とは所謂神道行事をなす場所であって、之等が皆真言の戒壇から思いついたものである事は云うまでもない。
右は唯一神道妙法要集に見えた所であるがが、尚兼倶の書いた神道大意には、妙法要集に見えた読の要鮎を取つて其の根本を示し且理論的に之れを説いてういる。其の大軆を述べれば左の通である。
神とは天地に先立つて而も天地を定め、陰陽に越て而も陰陽をなすものである。天地に在ては之を神と云ひ、萬物に在ては之を霊と云ひ、人に在ては之を心と云ふ。心は即ち神である。故に神は天地の根元であり萬物の霊であり、人間の運命である。無形にしてよく物を養ふものである。人間の五臓に着て五神(肺、胃、腎、肝、膽)となつて各々共の臓を守る。
人間が物を見ると云ふのは眼に色を見るのであつて眼が見るのではない。然らば何が之れを見るのであるかと云うに、神(たましい)が之れを見るのである。耳に声を聞くのであつて、耳が聞くので無い、之れを聞くものは神である、鼻の香に於ける、口の味に於ける何れも同様である。之に依つて心は神明の舎(やどり)があると云ふのである。
天神七代、地神五代を合せて十二代となる。日に十二時があり、歳に十二月があり、人に十二の経絡があり、叉十二因縁がある。
十二因縁とは無明、行、識、名色、六處、贖、受、愛、取、有、生、老死の過現未に亘る因縁を云ふ。無明とは過去に於ける懊悩、行は過去に於ける行ひ、識は一念、名色は精神と肉体との二つと云ふ事、六處とは六根(眼耳鼻舌心意)と同じである。
斯くすべてが天神七代地神五代の十二神の数に合致する所から、天地間のすぺての活(はたらき)は神の所為である事が判る。人間は天地の霊氣を受けて色心二體の蓮命を保つて居るものである。共の証拠には、人間の頭には七穴がある。之は天の七星を象つたものである。腹に五臓がある。之は地の五行(木火土金水)である。之も上下合せて十二となる。之は即ち天神地祇の変作である。日月は天地の魂魄であり、人の魂魄は即ち目月二神の霊である。故に神道は心を守る道である。心動く時は魂魄乱れ、心静なる時は魂魄も静かである。之を守る時は鬼神は鎭まり、之を守らざる時は鬼神乱れて災害が起る。之を守るの要領は、唯己れの心の神を祭るに越した事は無い。己れの心の中の神を祭るを清浄と云ふ。清浄を更に内清浄外清浄に分つ。
人間が心を使ふに七通りの別がある。喜と云ひ、怒と云ひ、哀と云ひ、楽と云ひ、愛と云ひ、悪と云ひ、慾と云ふ。形を用ゐるに五通りある。生と云ひ、長と云ひ、老と云ひ、病と云ひ、死と云ふ。亦合せて十二神となる。之れ天神七代地神五代の数である。斯く心を用ゐるにも形を使ふにもすべて神を離れる事は出來ない。喜の心が度を過る時は肝臓の神を傷り、怒の心が過る時は心臓の神傷れ、哀心過る時は肺臓の神傷れ、楽心過ぐる時は胃臓の神傷れ、悪心過る時は大腸の腑の神いたみ、慾心過る時は脾臓の紳いたみ、愛心過る時は膽臓の紳いたむ、之れら度に過ると云ふのはすぺて執着の心から來る。故に神道では此の執着の心を汚と云う。忌むとは己れの心と書く、我意を募る事である。之は棟遣では最も排斥する所である。
然し乍ら吾人は肉体を有っているが故に、自然喜ぶこともあるり、怒ることもあるり、哀む事 もあり、楽む事もあり、愛する事もあり、悪む事もあり、欲する事もある。此の七情其のものが悪いと云ふのでは無く、つまり其の度を過ごす事が悪いのである。過と不及とは災難の原因となり病の原因となる。過不及を去るのが中である。中とは取りも直さず神である。此神を知るを悟と云ひ知らざるを迷と云ふ。自ら迷へるものは迷を知らない。故に鬼神乱れて道を失ふのである。悟れる者は迷を知る。迷を知るが故に鬼神を祭る。鬼神を祭れば白然道は治まる。道治まる時は他が之に服從する。他が之に服從すれぱ始めて功を遂ぐる事か出來、從つて名を遂ぐる事が出來るのである。神を祭るものは安く、神を祭らざるものは危しとは此の事である。
神には三種の位がある。元神、託神、鬼神がそれである。元神とは日月、星辰等の神である。其の光り天に現じて其徳は三界に至る。託神とは非精神である。非情とは草木等の類である。鬼神とは人心の動作に從ふものを云ふのである。僅に一念動く時は此の心忽ち他に移る。故に心に天地を感すれぱ則天地の霊は我心に帰する。心に草木を感すれぱ則ち草木の霊は我心に帰する。心に他人を感すれば則ち他人の霊は我心に帰する。鬼は帰なりと云ふのは此の事である。鬼神は萬物の主であつて人心の宗とする所である。故に鬼神鎭まる時は則ち國家安く、鬼神乱る々時は國家破ると云ふのは此の事である。
以上が神道大意に見えた兼倶の神道論の要貼である、伊勢の神道五部書から取つたと思われる所も少くないが、其の鬼神論は多く佛教から取つた様に思はれる。
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