神奈備の阿加留比売が豊受大神となった説
古事記応神天皇段
新羅国の阿具奴摩[あぐぬま]沼のほとりで女が昼寝をしていた。そこに虹のように輝いた日光がホトを射した。女は妊娠して赤玉を産んだ。様子を窺っていた男がその赤玉をもらい受け、腰につけていた。男は谷間の田の小作人の食べ物を牛の背に積んで谷間に入るときに天之日矛命(以下天日槍命)に出会った。「 お前は牛を殺して食べてしまうであろう」と言って獄舎に入れようとしたので、男は赤玉を天日槍命に差し出し、許された。
天日槍命は赤玉を持ち帰り、置いておくと、うるわしい乙女になった。そして結婚して妻とした。 阿加留比売は天日矛命の為に、「種々(クサグサ)の珍(タメ)つ味(モノ)を設けて、恒にその夫に食はしめき。」とあります。ところが天日槍は心が奢り妻を罵るようになった。妻は「そもそも、私はあなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます。」と言いました。「阿加留比売は逃遁(ノガ)れ度り来て、難波に留まりぬ。天日矛、難波に到らぬとする間(ホド)に、その渡し神塞(サ)へて入れざりき。」と書かれています。
これが難波比売碁曾社に坐す阿加流比売神と言う。
阿加留比売とはさほど出来が良いとは言えない夫の天日矛から逃げてきた女人として描かれています。何故、彼女は神として祭られたのでしょうか。むろんひとりぼっちで来たのではなく、お付きの巫女さん方を引き連れての神としての来訪でしたのでそれなりに祀られたのでしょう。そのポイントは、阿加留比売には、大気都比売の神や保食神の雰囲気を感じるのです。御餞神と言える所が神らしい神だったのでしょう。
天日矛を塞えぎった難波の渡しの神とは、住吉の神だと思います。『住吉大社神代記』には、子神として赤留比賣命神の名が登場していることです。赤留比賣命神は住吉三神とは何ら関わりがなく、神功皇后は天日矛の血をひいていても、赤留比賣命とは何も関係がないのです。皇后の祖先神からからやっと逃げおおせた女神なのです。縁としては、天日矛から赤留比賣命を守ったことです。
さて、話はころっと変わって:−
『摂津国風土記逸文』によると、「稲倉山。昔、止与[口宇]可乃売神は山の中にいて飯を盛った。それによって名とした。またいう、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所にしていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅(ひぢ)の麻奈韋(まなゐ)に遷られた。
『丹後国風土記逸文』には、比治の里を追われた天女は竹野の郡舟木の里の奈具の村に至り、ここで「心が奈具志久(平和)になった。」と言われて、とどまりました。奈具の社においでになる豊宇賀能売命です。
この話は現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大御神は元々摂津にいて、それから丹波に遷ったと言うことです。
稲倉山なる山は現在の摂津の範囲には見あたりません。
『住吉大社神代記』に「船木等本記」の記載があり、熊襲・新羅を征伐の際、船三艘を造り、神功皇后・住吉大神の部類神・御子神・船木の遠祖を乗せて渡りました。この船を武内宿禰は奉斎し、志麻社・静火社・伊達社の三前神となりました。また、津守・船木・某氏の三柱が大社の大禰宣として奉斎しています。
住吉大社創建の頃には船木氏は重要な役割を果たしていたのでしょうが、その後の大社の歴史には登場していません。
津守氏との主導権あらそいに破れたのかもしれません。基本的に船木氏とは日神を祭る役割があったのです。住吉大社に於いて船木氏の祀る日神とは赤留比賣命神であったのです。神功皇后に替わったので、お役ご免となったのでした。
さて、住吉大社の第四本宮の比売神を神功皇后とするにあたってそれまで比売神であった赤留比賣神は現在の平野区平野東の杭全神社摂社の赤留比賣命神社に遷されたのでしょう。神功皇后を祀るのか、引き続き赤留比賣命を祀り続けるのかについて論争があったのかも知れません。船木氏は敗れたのかも知れません。この段階で船木氏は難波を追われ、住吉大社に祀られていた赤留比賣命神を奉斎して丹波の国の比遅の麻奈韋に遷ったのでしょう。丹波では赤留比賣命神を豊宇可乃売神として受け入れたのです。『丹後国風土記逸文』には、「竹野の郡舟木の里の奈具の社においでになる豊宇賀能売命」との表現があります。
丹後竹野 奈具神社「豐宇賀能賣神」京都府竹野郡弥栄町船木奈具273
赤留比賣命神は今や豊宇可乃売神として伊勢の外宮の祭神となっています。