出石神社
兵庫県豊岡市出石町宮内99

二の鳥居と神門

交通案内
出石バスターミナル北3km its-mo



祭神
出石八前大神、天日槍命



由緒
 北但馬には、当社を中心として天日槍一族郎党にまつわる神社が多く鎮座している。
 延喜式神名帳には但馬国出石郡筆頭に伊豆志坐神社八座とある神名大社である。この八座とは祭神の数と理解されているが、大阪の郷土史家である足代氏は供える御饌の膳の数ではなかろうか、との示唆があった。 延喜式神名帳の役割から見ると頷ける説である。
 祭られているのは天日槍が将来した八種の神宝でこれを出石八前大神とし、天日槍命を併せ祀っている。
 『古事記』珠二貫、振浪比礼、切浪比礼、振風比礼、切風比礼、奥津鏡、辺津鏡
 『日本書紀』垂仁天皇紀 羽太玉一個、足高玉一個、鵜鹿鹿赤石玉一個、出石小刀一口、出石桙一枝、日鏡一面、熊神籬、合わせて七種
 また一に云うとして、葉細珠、足高玉、鵜鹿鹿赤石珠、出石小刀、出石槍、日鏡、熊神籬、胆狭浅太刀 の八種。
 胆狭浅太刀とは気比神宮に関係するものか、国譲りに関係するのか、天日槍の古代史に占める役割の大きさをしめしていそうだ。

 創祀の年代は不詳であるが、『一宮縁起』なる社伝によれば、谿羽道命と多遅麻比那良岐命が祖神天日槍を祀ったのが始まりと云う。社殿は幾度か火災にあい兵火にあい、今日に至っている。

拝殿

 天日槍は伊都国にその痕跡をとどめている。『筑前国風土記』怡土郡の条に、怡土県主の祖五十跡手の自己紹介に「高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十跡手是なり。」と云っている。
 『播磨国風土記』には伊和大神と天之日矛との争いが語られている。結果としては住み分けをしたことになり、天日槍は但馬の伊都志の地に落ち着いたことが語られる。 天之日矛は海水を攪きて宿ったとある宇頭の川底とは、「宇須伎津の西の方に紋水の淵あり。」とされ、姫路市網干の魚吹八幡神社(うすき)が遺称地。

 『古事記』によると、「難波に到らむとせし間、其の渡の神、塞へて入れざりき。」とある。
 難波の渡しの神とは、住吉大神かなと思っていましたが、社伝では天日槍の数代後の神功皇后の時期に創祀されており、天日槍命が難波に来た頃は鎮座していなかったことになる。 もっと古い渡の神としては、三島鴨神社か。

 『日本書紀』垂仁天皇三年の条
 はじめ天日槍命、播磨国穴栗村にいたが、天皇が大友主と長尾市を但馬に派遣した。天日槍命は「私は新羅の主の王子である。」と名乗った。
 天皇は「播磨国穴栗村か淡路島の出浅邑に気の向くままにおっても良い」とされた。諸国を気ままにと願い、天皇はこれを許した。天日槍は宇治川を遡り、近江国の吾名邑、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。
 近江にも多く天日槍の足跡が残り、敦賀から出石に廻って落ち着いたのかも知れない。

 さて、長尾市が派遣されているが、この長尾市は大和の国魂神をヌナキワカヒメに替わって祀った大倭直の祖とされる人物。天日槍の八種の神宝のレガリアを穴師に祀ったのかも知れない。また物部氏に八種の神宝の話を漏らし、物部は十種神宝を創出したきっかけとなった等と想像をたくましくできる。

 出石神社の宮司家は長尾で、長尾市の末裔と云う。

本殿


お姿

 神門入り口に発掘された平安時代の鳥居の一部が置かれている。 豊岡から出石へ行くバスの道筋に鳥居と云うバスストップがある。その辺りで発掘されたものだろう。二の鳥居であったと云う。一の鳥居から社殿までは5km、二の鳥居からでも1km強。広大であった。
 神社は西のみが開けて山に囲まれた平地に鎮座、かっては西向きだったと云う。 天日槍の墓とする禁足地がある。

神門に置かれている古い鳥居

『平成祭礼データ』CDから
御由緒

神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えておりますが、諸書によりますと奈良朝時代すでに山陰地方有数の大社であったことがうかがわれます。 但馬の国一宮として別名を一宮さんの呼び名で尊敬されており、当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めております。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれております。
以上



お祭り

 10月20日 例祭

 日本の神々8 白水社

兵主神・邪馬台国と天日槍命・赤留比賣命

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