楯原神社
大阪市平野区喜連6丁目1-38

通案内
地下鉄谷町線喜連瓜破 北東に400m its-mo



祭神
武甕槌大神、大国主大神、孝元天皇、菅原道真、赤留姫命
本来は 赤留姫命 配祀 豊玉彦命、豊珠姫命 (『大阪春秋』140号 足代健二郎氏論文)

境内摂社 十種神宝大神



由緒
 河内国伎人郷と言われたちいきである。崇神天皇御代の創建とされる式内社である。赤留比売を祭神とする理由は、平野郷の赤留比売神社(現在は杭全神社の摂社)より勧請した龍王社を合祀し、境内の別宮に祀り奥の宮と称していたのを、現在は合殿しているが故である。

 万葉集に当地で歌った歌がある。
 〔天平勝宝〕八歳(やとせといふとし)丙申(ひのえさる)、二月の朔(つきたち)乙酉(きのととり)二十四日(はつかまりよかのひ)戊申(つちのえさる)、天皇(すめらみこと孝謙)、太上天皇(おほきすめらみこと聖武)、〔太〕皇太后(おほみおや光明)、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)して、信信(よよ)を経て、壬子(みづのえね)に難波の宮に伝幸(うつりいでま)し、三月(おやじつき)の七日(はつかまりなぬかのひ)、河内の国の仗人(くれの)郷(さと)の馬史國人(うまのふひとくにひと)が家にて、宴したまへるときの歌三首
4457 住吉の浜松が根の下延(ば)へて我が見る小野の草な刈りそね
     右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持。
4458 にほ鳥の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽きめやも
     右の一首は、主人(あろじ)散位寮(とねのつかさ)の散位(とね)馬史國人。
4459 葦刈ると堀江榜ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに


 息長川と言う川がこの辺にあるとの理解もあるようだが、鳰の湖とは琵琶湖のことであり、そこへ流れ込んでいる川で息長にかかわる川は天野川であり、息長川が仗人郷を流れているとの理解はいかがなものであろうか。

鳥居




社伝

 合祀されている天神社は、孝元天皇が大々杼彦仁の家に楯及鉾の御前社を拝しに来られた時、御真像を彫りこの郷に祀っていたものです。信じられない程の古社である。
 楯原神社の由緒 武甕槌大神は大国主大神の教えに従い、国平(クニムケ)の鉾を持って天下を巡行した後、この地に留まっていましたが、御孫大々杼命に「十握の剣を私の霊の代わりとして、また国平の鉾を大国主大神の霊代として斎き奉るように」と言い残して天昇り隠れました。
 子孫の大々杼彦仁は、神武天皇が東征の途中紀国で大熊に悩まされていた時、斎き祀っている祖神のお告げにより剣を献上したところ、天皇は大熊を切り伏せ無事倭国へ入ることができました。
 崇神天皇は、子孫の大々杼名黒に次のように言われました。「あなたの家に斎祀している武甕槌大神と大国主大神を同じ社で祀ることは畏れ多い。別々に神殿を造り、社名を称しなさい」そこで、字楯原の地(現在の喜連西一丁目)を選んで社殿を建立し、十握の剣を楯の御前社、国平の鉾を鉾の御前社として鎮め奉りました。
 大々杼名黒は、仲哀天皇の皇后息長帯女命は三韓御親征の時、お告げを伝えたところ、軍事がうまく行ったので、摂政は住吉御幸の時、楯の御前社と鉾の御前社の神籬を立てて祭られました。(これが住吉神社に其の社のある所以です。)
 皇后は楯の御前社と鉾の御前社に参拝し、その折、楯の御前社を改め、二柱の大神を楯原神宮と称し奉ることを奉告されました。また大々杼氏を改め息長氏とされたと伝えます。『式内社調査報告 摂津』で、真弓常忠氏は、「大々杼命とは応神記に見える品陀天皇が息長真若中比売を娶って生まれたのが若野毛二俣王、その子の意富富杼王を思わせる。」と書かれています。意富富杼王は古事記には息長君らの祖とあります。
 ところで、桓武天皇の頃(西暦800年頃)風水害が続いたので、赤留姫命を祭神とする一五の龍王社を境内神社として合祀しました。
 文明一三年(1481年)村候民が城跡に住むに当たり、神社も字楯原の地より現在近くに遷座されました。
 元和年間(1615〜24年)暴風雨のため社殿が壊れ、現在の地に新たに遷座されました。
 龍王社は奧の宮とも称しましたが、大坂夏の陣の兵火にあい焼失した頃より、龍王社が誤って楯原神社と呼ばれるようになりました。本来の楯原神社は、付近にあった天神社を合祀しまた後に菅原道真を合祀したころから、天神社または天満宮と呼ばれるようになっていました。
 嘉永年間(1848〜)忍坂大中姫を祭る媛天神を合祀しました。
 明治五年、由緒ある式内社の楯原神社は、赤留姫命を祀る社と間違われたまま無格社となりました。天神社は当社の北側にある妙願寺の鎮守として祭られており、梵鐘も楯原神社の境内にあり、喜連天神宮の刻印があります。天神社は村社に列せられてしまいました。しかし、明治四〇年、神社整理を機に、天神社に合祀されました。所が二年後、氏子さん方の努力で逆転をし、社名を元の楯原神社と改めました。


拝殿


十種神宝大神の由緒(庄司氏講話)説明板概要
 永禄年間(1558年〜)足利義昭は征夷大将軍となったが、実権は織田信長に握られていた。義昭は、大和の法隆寺、石上神宮、山城の大徳寺、紀州の根来寺、摂州の本願寺などに呼びかけて、反信長戦線をもくろんだ。
 しかし到底信長の敵ではなかった。信長はこれ幸いと古い社寺を叩きつぶしにかかったのである。石上神宮も焼き討ちにあった。この時十種神宝が持ち去られたと言う。幸い、丁寧に保管されており、これを知った秀吉が、生魂の杜深くに永久に鎮めた。
 倒幕直前の混乱期に生魂の宮も暴徒に襲われ、十種神宝は再び持ち去られた。町の古道具やでこれが見付けられ、順次人手に渡りつつ、ある篤志家が、この神社に献上され、祀られたのである。
 石上神宮の守護職を歴代つとめている庄司氏が返還を求めてきたが、返さなかったと言う。社殿を建立して祀っている。

十種神宝大神




お姿
 楠の大きい木が遠くからでも見える。社地は広くはない。

本殿




 十種神宝大神の向かって左隣に「息長真若中女媛」の碑がある。高さは30cm程度。

息長真若中女媛の碑


お祭り
 

 4月 7日 十種神宝神社祭
10月14、15日 秋祭

普賢山西池善法寺の碑文
 当地には息長氏にまつわる伝承が残っている。「北村家の家記」であり、応神天皇から継体天皇に到る系譜に関係するもののようであるが真贋や内容は知らない。
 善法寺に石に刻まれた碑文があり、よく似た内容だと言う。善法寺の門にある呼び鈴をならしたが、残念ながら応答がなかったので、ネットから得た概要を記す。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/abenomaro.4.html
 その伝承によると、喜連村一帯は、往時、大々杼(オオド)国大々杼郷と称した。その由来は、この土地に鎮座する式内社楯原神社の祭神である建御雷男命の御孫建大々杼命に因むもので、その子建彦命が父の御名を国・郷につけたという。その後、神武天皇の時に功あって、大々杼彦仁(ヒコヒトか?)に大々杼の姓を賜い、大々杼の国造に任じ、かつ剱臣(つるぎおみ)の号を賜ったという。(中略)仲哀天皇のとき、(大々杼)黒城に嗣子がなかったので、天皇は日本武尊の子、息長田別王を下し給うて黒城の女、黒媛に配せしめられ、御子杭俣長日子王を挙げられたという。以下、原文を紹介する。
「応神天皇8年、(妃)息長真若中女命 及 皇子若沼毛二俣王御幸あり、(中略)杭俣長日子王は息長真若中女命に宣給はく、吾に世継の彦なし、恐れ多きも此の若沼毛二俣王を下し賜ふまじくや、(中略)若沼毛二俣王は百々石城に下り、弟女(オトヒメ)真若伊呂弁王を配せられ息長氏を嗣ぎ給ひ、御子大郎子一名大々杼王・忍坂大中女命・田井中女命・田宮中命・琴節郎女一名衣通女命・取売王及び沙禰王の七子即ち三男四女を挙げられる、(中略)然るに若沼毛二俣王の長子大々杼王は、仁徳天皇の勅命を奉じて淡海の息長君となり、弟沙禰王は息長家を相続し、忍坂大中女命は男浅津間若子宿禰尊(允恭帝)の皇妃に立ち給へり。(中略)允恭天皇の御宇、息長沙禰王の女真若郎女を淡海の息長大々杼王の子彦主人王に嫁せられしが、御妊娠あり四ヶ月を経て此の百々石城に還り、王子御産あり、御名を大々杼命と称す、(中略)8年を経て雄略天皇元年、息長沙禰王は御女の真若郎女・御孫の大々杼命を淡海の息長彦主人王の許に送り参らせられる。然るに実母真若郎女は早世せられしかば、異母福井振女に随ひ、成長せられて越前三国の君と号す。王子は後に天下を治め給へり。(継体帝のこと) 以下略

要するに下記の系譜を言っている。
応神天皇
   iー若沼毛二俣王
息長真若中女命  iー大々杼王ー彦主人王
     真若伊呂弁王       i-ー大々杼命(継体天皇)
         息長沙禰王の女真若郎女

普賢山西池善法寺 地下鉄喜連瓜破駅西




楯原神社の北側の霊峰山如願寺の由緒

 このあたりの地名は「喜連」と書いて「きれ」と読む。古事記にも出てくる古い地名である。 如願寺は当時は喜連寺として創建された。三十二代用明天皇の時代、聖徳太子が物部守屋を討伐したとき、仏法興隆奇瑞の地として当寺を建てた。
 その後星霜を経て堂宇は縮小したが、二三〇年後の弘仁八年()、弘法大師が高野山 錫のみぎり、この霊場に詣で、その衰退を悲嘆され、御杖を立てそれが朽ちないうつに再建の願を立て上京し、勅許をこうむって来てみると杖は植木の如くなっていた。ゆえに杭全の荘と名づけ、弘仁十一年、ついに荘厳なる諸堂を再建し、このとき如願寺と寺名を改めた。

如願寺




如願寺の東側の幼稚園
 古木が数本ある。天神社へ合祀以前の楯原神社の地と思われるとは、足代健二郎氏の指摘。

幼稚園、向こうは如願寺



兵主神・邪馬台国と天日槍命・赤留比賣命

物部氏ホームページ

神奈備にようこそ