邪馬台国にようこそ

邪馬台国はヤマト国とよみ、大和にあった国のことである。一時期、女王卑弥呼(ヒミホ)が統治した。

 畏兄大三元先様のHpから、魏志倭人伝の固有名詞の漢字の読みを紹介いたします。
 漢字の読み音は、周秦の時代は上古音、その次の時代は中古音とされております。
 ここでは、邪馬台国と卑弥呼の読みに関係する漢字を氏のHpから抽出しました。

Hp大三元さん 藤堂明保編「漢和大字典」学習研究社 から。
上古音中古音用例読み備考

http://www.dai3gen.net//gishi04.htm

大三元さん、

このリストを参照して、卑弥呼、の読みを調べてみたいと思います。 早速、同リストから、拾ってきますと、

卑 pieg pie pi ...p?i ヒ甲
彌 mier mie mi mi ミ甲
呼 hag ho hu hu ホ、でしょう

上古音なら、pieg mier hag
中古音なら、pie mie ho

つまり、ヒミ、までは良いとしても、最後の「呼」を「コ」と捉えるのはどうしてでしょう? 通説の通り「日神子、日御子、日巫女」なんかの都合の良い読みが「近く」にあったので語呂合わせしただけではないでしょうか。

確かに、日本では後代「呼」を「コ」と発音するようになったようですが、彼の国では、上表のように、ハ→ホ→フ→フ、と変遷して来たとされます。現代北京語もフーに近い音です。以上 大三元さん

 魏の人々は「邪馬台国」を ヤマティ、ヤマト と表記しています。
 卑弥呼 は ピミホ、ヒミホ で、9世紀以降に 呼 は コ と読まれるようになり、それ以前は ホ ないし ヲ の発音です。魏志倭人伝の読み方を何時まで江戸時代の学者さんに従っているのでしょうか。正しく発音してこそ、正しく理解できるのです。


1.位置論  魏 220年〜265年 『魏志倭人伝』3世紀末


 『倭人伝』 その(女王国の)道里を計るに、まさに会稽、東冶(杭州)の東に在るべし。
 『倭人伝』 有無する所は(産物は)タン耳、朱崖(海南島と同じ。
 女王国は台湾の東方で産物は海南島と同じ位の南方にあるとの認識である。中国には日本列島は南に延びているとの誤解があった。従って、『倭人伝』の九州外の方位の「東」を「南」に読み替えて差し支えない。

 邪馬台国は大和である。位置論は自同律の不快である。日本列島が南に延びている混一疆理歴代国都之図は1402年の作成、それより130年も前の元寇の際、蒙古軍は二度も九州上陸を目指したのあって、東に延びているとの認識なら、若狭湾あたりに上陸されていれば、この国の歴史は大きく変わっていただろう。

  『倭人伝』によると卑弥呼の墓の直径は百余歩ごあり、150m程度。3世紀半ばの古墳で該当するものは九州にはない。箸墓古墳の後円部の径は150mである。


2.倭国王帥升等  後漢 25年〜220年  『後漢書』440年頃成立

  『後漢書』倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼし(紀元前108年)て以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る。
 先に出来ていた『倭人伝』「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。」からの引用。

  『後漢書』建武中元二年(57)、倭の奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国の最南端にある。光武帝は印綬を賜った。
 『後漢書』安帝永初元年(107)、倭国王の帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内し天子にお目にかかることを願い出た。

 帥升(等)は、倭人の名前の初出である。
 大倭王の居住地は邪馬台国とあるのは『倭人伝』の引用だろうが、『後漢書』の書かれた時代の認識もそうであった。即ち允恭天皇の時代であり、都は大和飛鳥である。

 本当は帥升はどこに都していたのか。

 2013年11月に岡山大教授の松木武彦氏(現国立歴史民俗博物館 考古学)は、帥升を吉備の人と見てもいいのではないかと「古代を偲ぶ会」で述べた。卑弥呼が倭王に起用されたのは帥升の末裔と言う出自もあったからではないかと指摘した。氏は帥升をヤマトに居るとは見ていなかったようだ。

 さて『後漢書』からは帥升は邪馬台国に居ると読めるのであり、一概に否定してしまっていいのだろうか。

 帥升とはどのような人でどこを都としていたかと言う問題である。
 九州在住の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」の福嶋雅彦さんは帥升を素戔嗚尊のことと主張されている。「倭王「帥升」=“shuai−sheng”=“soe−sang”=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」と思います。中国書記官の認識の音価認識=“shuai−sheng”であり、「素盞嗚尊」の「倭語」音写と観ます。」と言う。

 言語的に両方ともSS音であり、興味深い説だが、かたや人、かたや神、私は違うと思う。首長霊信仰は古墳時代以降。

 帥升について、幾つかの仮説を考える。

 イ)帥升は伊都国か奴国の王で倭王であった。奴国の王であれば先祖が50年前に朝貢している。印綬を貰う必要はない。後裔はツクシ国の王となった。

 ロ)帥升は吉備の国王で倭王であった。この場合ツクシ国から覇権を奪い取っていることになる。恐らくは戦い取ったのだろう。後にヤマトに遷るか、ヤマトに覇権を取られることになる。

 ハ)帥升はヤマトの王であり、倭王でもある。天孫の場合、帥升が神武・綏靖・安寧あたりの天皇と思われる。邪馬台国がヤマト王権の原型であったことになる。\(^o^)/。

 ニ)しかし、帥升は天孫とは限らない。神武以前にヤマトに天降った饒速日尊は物部氏の遠祖であり、物部氏の宇摩志麻治命・彦湯支命・大彌命あたりだったのかも知れない。

 どのケースでも、後に倭国乱に巻き込まれていく。  


3.倭国乱 

  『倭人伝』その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。。

 ● 帥升の統治から70年〜80年を経たと言うことは、2世紀末以降に倭国乱があったことになる。卑弥呼の共立は2世紀末か3世紀初め。
 『後漢書』桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。

 ● 大阪市大の岸本直文氏は、「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」の中で倭国乱について、「長引く抗争の中で、利害を調整するため上位権力を設けることが合意され」、それは、「ヤマト国を盟主とすることで合意され」、「ヤマト国が倭国を統率する中央権力に上昇し」、「纏向遺跡は弥生時代のヤマト国の本拠であったが、ここが倭国の本拠となる」と述べている。
 結論的にはこのようなことだろう。

 佐原真『魏志倭人伝の考古学』 考古資料から見るとき、北部九州から伊勢湾沿岸までの範囲では、環濠集落・高地集落・殺傷人骨・武器を始めとして戦争に関わる可能性を持つ考古学的事実が数多くそろっており、戦争があった社会と認めてよいでしょう。南九州・長野・北陸・新潟・東海・南関東は実際に戦ったかどうか分からない社会ととらえておきたい。(中略) (弥生後期には)瀬戸内海・大阪湾沿岸で石の武器の発達と高地集落の発達が認められ、名古屋付近でも石の武器が発達している。松木武彦さんが指摘するように、中部瀬戸内・畿内・伊勢湾沿岸のそれぞれの地方で戦争が繰り広げられる状態だったのでしょう。

 2世紀の倭国の状況を次のように見なす。北九州のツクシ国が覇権を握り、後漢から大倭王と認められていた。これに対して、物部氏主導のヤマト国やキビ国・タジマ国・ハリマ国・アワジ国・オハリ国等々が連合を組み、ツクシ国と対抗する構図ができていた。

 『倭人伝』租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。
 初期天皇の名に「大倭」が付いているのが、四名いる。鉄素材の商いを握っていた可能性がある。『古事記』の表記を示す。
 第四代 懿徳天皇 大倭日子友命  第六代 孝安天皇 大倭帯日子国押人命
 第七代 孝霊天皇 大倭根子日子賦斗邇命 第八代 孝元天皇 大倭根子日子国玖琉命

 天孫族が力をつけてきていた様子がうかがえる。彼らはヤマト連合の中で重きをなしてきた。孝霊天皇はキビ国王になっていた。投馬国である。ここに「秦郷鉄造之発祥之地」の碑を境内に持つ姫社神社が鎮座している。天日矛の影響下にある。その上、孝霊天皇は天日矛の出石小太刀ゆかりの淡路から意富夜麻登玖邇阿礼比売を娶して、夜麻登登母母曽毘売命、大吉備津日子命を生んでいる。

 さて、ツクシ国の重要な国の伊都国についてであるが、『風土記』逸文 筑前国)に、「仲哀天皇が「誰人か。」と尋ねたところ、怡土国の五十跡手は高麗の国の意呂山に天から降ってきた日桙の末裔と名乗った。」との記事があり、伊都国は天日槍にゆかりの国であり、孝霊天皇の説得もあって、ツクシ国は内部から崩壊していった。卑弥呼の時代にここにツクシの国々を検察する一大率を置いた。

 ツクシ国の覇権を打倒した国々は次の新しい覇権を求めて争うものが出てきた。そこで国々は話し合いをし、スバ抜けた霊力の持ち主で、絶世の美女である夜麻登登母母曽毘売命を女王として共立して、倭国の平和が齎されることになった。卑弥呼を補助した男弟とは孝安・開化・崇神であった。後世に帝紀に天皇と記載され、二人の女王は巫女王と見なされて書かれなかった。248年ごろの卑弥呼の死後に台与が共立され、その後に崇神天皇が高齢で即位した。
 身内の卑弥呼擁立でヤマト国内では天孫族が物部氏を圧倒した。物部氏の一部は東国に行き、反卑弥呼の狗奴国をたて、抗争がはじまった。

  『旧事本紀』國造本紀には、遠江に久努國造(くぬ)の名が見え、物部連の祖伊香色雄命の孫・印播足尼である。 谷川健一著『白鳥伝説』によれば、久努氏は遠江国山名郡久努郷におこったと言う。 

  3世紀初頭に卑弥呼の都が建設され始めた。巻向遺跡である。まだ5%程度しか発掘されていないが、重要な四棟の建物群跡が出土している。162次遺構。建物の東西軸は北に5度ずれている。この線の延長戦上に穴師山の頂上がある。かつて穴師坐兵主神社(ご神体は日矛)が鎮座していたとされるが、痕跡は残っていない。兵主神は日本では天日矛・天日槍命であり、卑弥呼倭国の功労者と言うことだろう。箸墓と崇神陵の中心線が共に穴師山を指しているのも偶然ではないと思う。

巻向遺跡と穴師山

 巻向遺跡は、南に大物主を祀る大神神社、北には物部氏の石上神功が鎮座しており、天孫の王権の以前の物部政権その前の大国主政権を象徴する場所の間に建設されたのである。

岸本氏古墳の系列 大王名は神奈備
 
。     。
西暦 出来事
-202 劉邦 漢王朝を建てる。
  遠賀川流域の物部一族の一部、畿内へ移る。
 -82 『漢書地理志』 楽浪 海中倭人有り。分かれて百余国をなす
   漢武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして(−108年)以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る
  唐古・鍵遺跡、 池上曽根遺跡
25 後漢成立
57 『後漢書』倭の奴国王が朝貢。光武帝より 「漢委奴国王」の金印を授かる。
107 『後漢書』倭国王師
  『後漢書』桓・霊の間  倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、暦年主なし。
147 『魏志倭人伝』倭国乱れ相攻伐すること暦年。
184  黄巾の乱
189  後漢霊帝逝去、後漢滅亡
200 この頃、卑弥呼が共立される。
210 唐古鍵遺跡が俄に衰退。銅鐸の終焉。纏向遺跡が発展。
216 曹操、魏王となる。
239 『魏志倭人伝』難升米と都市牛利を帯方郡から魏の都に派遣した。
   この時、卑弥呼は親魏倭王に册封される。
240 この頃、崇神が男弟に就任。
240 正始元年、帯方郡太守弓遵は建中校尉梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す。錦・刀・銅鏡百枚を賜る。
243 正始四年。倭王はまた使の大夫伊聲耆、掖邪拘等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青?、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。掖邪狗等は率善中郎将と印綬を壱拝す。
247 正始六年、詔して倭、難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授す。
247 卑弥呼、狗奴国王卑弥弓呼と戦う。
248 この頃、卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。
260 この頃から纏向型前方後円墳が各地で築造されはじめる。
266 『晋書』武帝本紀 倭人来献。台与。
270 定型化した大型前方後円墳の築造が始まる。台与政権終わる。倭国王に崇神。
                          

 狗奴国を邪馬台国の南にあると記述されているが、下記の地図のように、大和を呉の東に持ってくるための記述といえよう。



付録 神武東征

   東征の経路には海人族の協力があった。これが倭国造の祖とされる椎根津彦の道案内の話になっている。

海(和田地名)

『記紀』『平成祭りCD』綏靖天皇から開化天皇まで


 

 各天皇の地域別神社数
                 瀬北=瀬戸内海北岸 山口、広島、岡山
     九 瀬 瀬 奈 近   瀬南=瀬戸内海南岸 愛媛、香川、徳島
     州 北 南 良 東   近東=近畿以東
 綏靖  20 0 2 0 5  妃 一人 事代主神の娘
 安寧   0 0 0 1 2  妃 一人 事代主神の孫娘
 懿徳   0 0 0 1 1  妃 一人
 孝昭   0 0 0 0 1  妃 一人
 孝安   0 0 2 3 4  妃 一人
 孝霊  1 17 2 1 1  妃 四人  磯城県主大目の娘細姫など
 孝元   1 0 0 1 5  妃 四人  穂積、物部、河内の娘達
 開化   0 0 0 1 4  妃 三人  丹波、物部、和珥の娘達

 孝霊妃:大倭玖迩阿禮比賣命
     0 0 0 1 4
 台与の娘 大倭迹迹日百襲比賣命 
     0 4 6 1 1

 欠史八代とされる天皇達、初期の天皇の妃が事代主神の娘などになっている。伝承が失われていたのであろう。孝霊天皇の妃は四人記録されている。また瀬戸内海北部の神社に多く祭られている。彼の伝承は残っていたのだろう。

 『魏志倭人伝』に、「国々に市場が開かれ、それぞれの地方の物産の交易が行われていて、大倭が命ぜられてその監督の任に当たっている。」とある。大倭とは執行王のことかもしれない。欠史八代の天皇の中に「大倭」の冠がついている者がいる。
懿徳天皇 大倭日子鋤友命
孝安天皇 大倭帶日子國押人命
孝霊天皇 大倭根子賦斗迩命
孝元天皇 大倭根子日子國玖琉命

 他に、邪馬台国の長官に伊支馬がいる。垂仁天皇は伊久米伊理毘古伊佐知命と言い、似ている。

 その下に、弥馬升がいる。孝昭天皇は御真津日子訶恵志泥命と言う。

 伊都国の長官は、爾支と言い、師木津日子玉手見命か。

 ここにはいろんな説がある。


 九州から大和への移動


 九州の弥生後期遺跡の鏡の持ち方と大和纏向北方の天神山古墳の持ち方は一緒(梅原末治)
 纏向遺跡は継続性を持たず、異質な政治的再編を受けている。
 纏向遺跡からは東海・関東・西瀬戸内等の土器が出土しているが、北九州の土器はでていない。これは支配・祭祀・武装の階級が主に東征し、土器を作る女性達の移動は少なく、それらは民衆の動員として吉備などから、古墳の造営には畿内・東海・北陸などの民衆が動員されたと考えていい。(大和岩雄)
 纏向遺跡から掘っ建て柱の建物跡が出土している。宮殿と見なされている。箸墓の真北。卑弥呼の宮殿とか崇神天皇の宮との説が出ている。

建物跡からの復元図




魏志倭人伝』葬儀


 棺あるも槨なく土を封じて塚を作る。始め死するや喪を停むること十余日・・・喪主は哭泣し他人は就きて歌舞飲酒す。巳に葬れば家を挙げて水中に詣りて澡浴す。
 「棺はあるが槨(棺を納める部屋)がなく、直接棺を土中に埋めた。」これは戦後暫くまでの庶民の土葬の一般的やりかただった。気の遠くなる歴史を刻んでいる。前原市平原遺跡の弥生墳も同じように作られているし、また出雲の西谷三号四隅突出方丘墓も同様である。

 2世紀央 平原弥生墳墓からの出土品の特長。
  鏡、刀、玉の三種の神器が出土していること。
  出土した鏡は42面、その中には最大の直径の46.5cmの内行花文八葉鏡が4面ある。
 伊勢神宮の御神体の鏡は、『延喜式』によると、鏡を納めている桶代は一尺六寸三分、『皇太神宮儀式帳』にも御桶代内一尺六寸三分とある。これは約49cm、鏡の大きさが出土品と同じくらいと想像できる

平原遺跡出土の八頭花崎八葉形銅鏡


 平原弥生墳墓の特長。


 平原遺跡墳墓は日向峠からの日の出の光が股間にあたるように埋葬されている。また鳥居と思われる柱穴もその方向を示している。被埋葬者は太陽の子を身籠もる巫女王だったと思われる。

『実在した神話』から

古代出雲の墳墓



 古墳の形状から見る倭国と狗奴国。

 260年頃から巻向型前方後円墳が出現する。邪馬台国などが構成する倭国連合が各地の祭祀を取り入れて首長霊を祀り、継承儀礼を行う施設として前方後円墳を考案した。
 一方、狗奴国であった地域には主に前方後方墳が出現した。

九州の夜明地名 邪馬台国九州説の場合

ヨアケとは屯倉のような防衛の為の出城



 建国神話の相似。

 百済の建国神話
 兄沸流と弟温祚が建国の地を求めて旅に出る。
 沸流は海浜に都を設置した。仁川付近と思われる。
 温祚は陸地に都を設置した。ソウルの南側と思われる。
 海浜では地が湿っており、建国は出来なかった。
 陸地の方は豊かな国になっていた。
 沸流は自殺し、住民は陸地に移転した。

 
日本の建国神話
 兄五瀬と弟神武が大和の地に建国するべく旅に出た。
 瀬戸内海の航行を主導した五瀬命は生駒で矢傷を負い死亡。
 神武天皇は熊野から大和へと陸地を進軍した。
 神武天皇は大和での抵抗をうち破って建国した。

 
共通点
 兄弟で新しい国を求める
 海の代表の兄は死ぬ
 陸地の代表が建国する



 『記紀』に記述されるまで約400年が経過しており、東征の事実は記憶されていたが詳細は百済建国神話なども参照して構成されたのかも知れない。

  参考書籍 『邪馬台国論争』(岡本健一)講談社、『倭国』(岡田英弘)中公新書、『日本の古代』海人の伝統(中央公論社)、『卑弥呼の正体』(遠山美都男)、『王権誕生』(寺沢薫)、『邪馬台国は二ヵ所あった』(大和岩雄)、『実在した神話』(原田大六)、『古代学入門』(黛弘道)


神奈備にようこそ