徐福渡来伝承の地
紹介サイトのリンク集


 「史記」秦始皇本紀(BC219年)薺の人徐市ら言う、海中に三神山あり、蓬莱、方丈、瀛洲と曰い、僊人これに居る。童男女と之を求むることを得ん。

 「史記」秦始皇本紀(BC212年)始皇・・乃ち大いに怒りて曰く・・徐市ら費すこと、巨万を以って計うるも、終に薬を得ず。

 「漢書」伍被伝(一世紀) 徐福をして海に入り、仙薬を求めしむ。多く珍宝・童男女三千人、五種・百工を薺して行かしむ。徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来らず。

 「呉書」孫権伝(一世紀) 秦始皇帝、方士徐福を遣わし、童男童女数千人を率いて海に入り、蓬莱神山及び仙薬をもとめしむ。亶州にとどまりて還らず。世々相承けて数万家あり。(亶州を種子島と周辺を比定する見解がある。)

 「義楚六帖」(後周) 今に至りて徐福の子孫皆「秦」氏と言う。

 昭和18年に発行された「科學ノート」(中瀬古之郎著) 方士徐福、始皇帝に奏上として、「大王が如何に廣大な土地を取るも、若し東海の畔に立って海を眺め給ふならば天地は渺茫として際涯がないのに氣がつくであらう。 それと同じく、大王が若し瞑目して宇宙の過去・現在・将来を思ひ給ふならば、宇宙は實に悠久にして、人間の壽命は風前の燈、蜉蝣の生涯にも如かざるを感じ給ふであらう。如かず、空間の征服を断念し給ふて、専ら時間の征服即ち人間壽命の延長に思いを凝らされて然るべきではないか。」 この様にして、童男女三千人、農工百藝の書籍技術を携えて、出発した。



この地図をHPにご使用される場合、ご一報下さい。
某支那のサイトは恥知らずにも無断引用しています。



総合的サイト

徐福・秦氏について総合的考察 超マンダラの世界へようこそ by Mr.Kurosawa

各地の徐福伝説 by 伝説の扉

徐福伝説 by ほるほる放送局

古代史の扉 徐福伝説 by 飛鳥ネット

邪馬台国大研究 by INOUES.NET

徐福の研究 by 論考・医学史からみた徐福の研究

太古の浪漫 弥生文明を先導した徐福

日本海側

青森県 小泊村 − 尾崎神社 航海・漁業の神・徐福木像 
リンク 青森なのだ 権現岬の徐福伝説
 小泊岬の頂上に尾崎神社が鎮座、その南麓の海岸沿いの集落に熊野神社が鎮座、尾崎神社は元歴(1184年)の頃、紀州から尾崎一族が阿部一族を頼って来、この地方に住み着き熊野大権現を祀った社と言う。
 小泊村の伝承には、徐福の船団は紀州熊野に着いたが、徐福の乗っていた船は津軽まで流されたがその後徐福は中国へ帰ったとある。
 また、正徳元年(1711年)に徐福の子孫がここに定着した。この時徐福の像と観音像を持参、飛龍大権現と称した。
 文禄年間(1592年〜)津軽の尾崎氏が那智大社の宮司をされている。その後津軽に帰ったという。一方、紀州熊野の阿須賀神社には徐福の木像があったが、それがこの小泊村の熊野神社に脇士として現れている木像か。

陸奥津軽 尾崎神社「伊弉諾尊、伊弉冉尊」青森県北津軽郡小泊村尾崎道93
陸奥津軽 熊野宮「伊弉諾尊、伊弉冉尊」青森県北津軽郡小泊村下前175

秋田県 男鹿市 − 赤神山の徐福塚 − 蓬莱島 − 
リンク グー!な男鹿半島  徐福伝説 by 伝説の扉 各地の伝説 
 文化年間(1804年〜)の遊覧記に、本山(赤神山)に鎮座する赤神神社の付近に徐福の塚があり、蓬莱島があったと言う。

羽後秋田 赤神神社「天津彦火瓊瓊杵之命ほか」秋田県男鹿市船川港本山門前28

京都府 伊根町 − 新井崎神社 漁業の神    
リンク 「丹後」徐福研究家石倉昭重さん 丹後の伝説 by Kiichi Saito
 七代孝霊天皇の時代、方士徐福が易筮によって新井崎のハコ岩に漂着、仙薬を求めてやってきたが少ないので帰れないと住み着いた。仙薬とは九節の菖蒲と黒茎の蓬であった。里人に慕われ死後は産土神として祀られたと伝わる。新井崎神社を童男童女宮(とうなんかじょぐう)と呼ぶ。

丹後与佐 新井崎神社「事代主命、宇賀之御魂命、徐福」京都府与謝郡伊根町新井松川8-3

山口県 豊浦郡 豊北町 土井が浜 
リンク 未踏の島と古代人が我々を呼ぶ!!(豊北町) by 穴場探検隊
 山東省方面にあたる西向きの弥生矢傷人骨78体出土、徐福出身地候補の山東省の半島の根本付近と骨格が酷似と言う。伝承が残っているわけではない。


太平洋側

東京都 八丈島 − 女護島 リンク 椿説弓張月
 宝井馬琴が伝説を取り上げたので一躍有名になった。
黒潮にのった徐福の船団の一部は伊豆七島に漂着したと言う。
徐福は東海の島々を霊薬を求めて探し回ったが見つからず、紀州熊野で生涯を終えたと言う。
童男童女は船に分乗し漂流した。八丈島には五百人の童女が、青ヶ島には五百人の童男が漂着したので、それぞれ女護島、男島と言う。

東京都 青ヶ島 − 男島 リンク 徐福から為朝へと繋がる伝説を持つ島 青ヶ島の伝説
 徐福は不老不死の仙薬を求め、遠大な計画をたてて、童男五百人、童女五百人をのせて大陸を出帆した。東海を隈無くさがしたが見つからず、帰国する訳にはいかなかった。 そこで童男五百人を青ヶ島に、童女五百人を八丈島に残し、年に一度の逢瀬を許したと言う。女児が生まれたら八丈島に、男子が生まれたら青ヶ島に連れて行く習わしだったと伝わる。


神奈川県山 − 末裔 − 藤沢市・妙善寺、秦野市 リンク 徐福伝説 【神奈川やまなみ五湖navi】 東三河と神奈川における徐福伝承

長野県 − 末裔 − 
衆議院議員で、元首相の羽田孜氏は、長野県にある本家・羽田家の軒下には昔から「秦陽館」の三文字を大書した額が掲げれれており、羽田家は秦(しん→はた)の徐福に血の源流があることを示しているとし、自身も徐福の末裔であろうと述べている。


山梨県 富士吉田市 − 富士古文書 − 徐福祠 紡織の神 リンク 富士吉田市
  富士古文書八十部は、徐福と徐福の子孫が記述したものといわれている。 富士古文書は、日本の古代史と徐福の系図や東渡後の生活についても精しく述べられているが、偽書であるとの見方が多い。以下に概要を記す。

 徐福の祖先は、五帝最初の黄帝(軒轅)より出る。黄帝の第四皇子の忠顕を徐氏の第一代とした。 その六代の萬世が夏の大兎に仕えた。(BC2224年)子孫は世々夏に仕えたが,その夏が亡んだ後、(BC1766  年)朝に仕えず野に降ったが、五十四代の正勝が周の武士に仕えた。(BC1123年)功があって姓を徐と賜わり、楚国の首長に補せられた。その七十二代の時、首長をやめさせられたので野に降ったが、八十一代の子路が出て孔子の門に入り学を修めた。子路は孔門十哲に数えられている。
 その後、徐氏は儒学をもって家業とした。八十六代の范睡が秦王に仕え、応候に封ぜられた。 徐福はその一子である。」という。

 徐福は博く儒学を修め、天竺(インド)に赴さ、仏学を学ぷこと七年に及んだ。秦王政に仕えて勲功があったので、官位が昇進して頗る篭用された。 秦王政は天下を統一して、自ら始皇帝と称した。三年春,(BC244年)東の方の郡県を巡視し東海を望む。徐福上書して日く「東海に蓬莱・万丈・瀛州という三神山がある。 これは全世界の大元祖国であって、大元祖宗の子孫の神仙がいて、不老不死の良薬を持っている。 もしこれを服せは千万歳の寿命を保つことができる。これを求めんと請う。始皇帝はこれを許可した。

 徐福はさらに奏して、これを求むるには十五年〜三十年を要するが故に、それに相当する旅装がいる。 即ち、金・絹・鉄・砂金・珠玉およぴ衣食器具と男女五百人、大船八十五隻を要すると言った。始皇帝はこれを悉く許した。  かくて徐福はその準備が整うと、男女五百人とその食糧を八十五隻の船に乗せて、始皇帝三年六月二十日に出帆した。(BC244年)。

 一行は不二蓬莱山(富士山)を目標にして航行した。東に南にまた東にと船を進め、ようやく十月二十五日、木日国(紀伊)に到着した。ここで三年間滞在した。 一行は孝霊天皇七十西年九月十三日(BC217年)、再び船に分乗して待望の富士山を目標として東に進み、十有余日にして住留家の宇記島原に上陸した。 それより富士山の西をまわり、中央の高天原(旧帝都)の地に到着したのが十月五日であった。 まず阿祖山大神宮初め各七廟を拝礼し、一行は大室中室に居住した。 一行中には農夫・大工・壁塗・漁人・紙師・笠張・楽人・衣類・工女・酒製造人・塩炊・鍛冶・鋳物師・石工・諸細工夫・医師などがいて、自給自足ができたようである。さらに徐福は蚕を養わしめ、糸を作り機を御女等に織らせたという。」とある。

 時に、武内宿禰、大神宮へ奉幣にさて、徐福の来朝を聞いて大いに悦び、その門に入って教えを受け、後に一子矢代宿殊をも門人にした。矢代宿殊は秦人に学んだので姓を羽田と改めた。 徐福は武内宿禰の請をいれて、塾を開いて学を講じた。大神宮のほとんど全神官が学生になった。徐福は日本の古文史に興味を持ち、三十六神家につき、その口碑・伝言・文書などによって十二支談を作った。

 徐福は八代孝元天皇7年二月八日(BC208年)に逝去した。中室朝呂山の峰に葬られた。日本に移住して以来十年目である。

 徐福の長男の福永は、父の後を嗣いで姓を福岡と改めた。次男は姓を福島と称し、紀伊の熊野に、一族五十余人を引き連れて移住した。その子孫は社祠を建てて徐福の霊を祀ったと言う。(阿須賀神社) 徐福の第四代目の福仙は、大神宮の神官に任ぜられ、子々孫々これを継承した。三十二代福岡徐教の時、富士山の大噴火の際大宮司と共に古文書、宝物を養護して共に相模に避難したと言う。

甲斐都留 甲子神社(太神社) 富士吉田市明見 未確認 徐福祠があるとの事。
上の祠から北東へ150mほどの所に小山があります。民家の横を通り,細い道を行くと太神社の鳥居が見えます。そこから石段を上ると徐福祠の前に至ります。
甲斐都留 聖徳山福源寺 富士吉田市 鶴塚
 碑文 峽州に鶴郡あり。その地、南は富岳の麓に接す。相伝う、孝霊帝の時、秦の徐福、結伴して薬を東海の神山に求む。ここに至るにおよび、おもえらく福壌なりと。遂に留まり手去らず。 後に鶴三羽ありて居る。つねに遊びて郡中に止まる。時人以て徐福の等の化すところとなす。
 孝霊より元禄に至る凡そ二千有余年にして一鶴死す。その骨を郡の福源寺に埋めそめ鶴塚と称す。


山梨県 河口湖町 − 末裔 − 浅間神社 リンク東方紀行 北口本宮富士浅間神社・徐福公園
 徐福は紀州那智が浦に上陸、熊野三山を巡って富士山中に踏み入ったが、鬱蒼と繁る原生林の山腹には小路ひとつなく、いくら捜しても薬草は見つからなかった。 到底帰国できないと悟り、引き連れてきた童子300〜500人を奴僕として、河口湖の北岸の里近くに田畑を開き、供の翁の娘をめとって、土民に養蚕・紡織・農法などの術を教えながら、遂に湖畔に果てたと言う。

甲斐都留 浅間神社 山梨県南都留郡河口湖町河口1 末社に徐福社


山梨県 南都留郡 山中湖 − 金印 −リンク  徐福ロマン 弥生時代のフロンティア 山梨の徐福

静岡県 清水市 三保松原 上陸伝説があるとされるが詳細は不明。

愛知県 宝飯郡 小坂井町 − 秦氏 −  莵足神社 リンク ほるほる 徐福伝説の広場 東三河と徐福伝説
 東三河の宝飯・渥美には秦人に関する伝説が多く、宝飯郡御津には秦の徐福が木の国から三河湾に入り、御津港から上陸したと伝えられている。

三河宝飯 莵足神社「菟上足尼命」愛知県宝飯郡小坂井町大字小坂井字宮脇2


愛知県 名古屋市 熱田区 熱田神宮 − 渡来伝承 −  リンク 徐福伝説と牛川浪ノ上稲荷社
 熱田神宮の境内は、かっては海に面しており、古くから雲見山・蓬莱島の名で知られている。

尾張愛知 熱田神宮「熱田大神」愛知県名古屋市熱田区神宮1−1−1


三重県 熊野市 − 末裔 − 波田須神社「徐福社」(徐福)(神宝徐福の鉢)焼き物、捕鯨、医術の神 リンク 熊野の物語 - 徐福と熊野徐福伝説 in 熊野 by みくまのねっと
熊野市波多須矢賀の里の海辺に徐福祠と徐福の墓がある。 また釜所と言う所は徐福が製鉄を始めたと言い伝わる。砂鉄が出ている。

紀伊牟婁 波田須神社「應神天皇」摂社徐福社「徐福」三重県熊野市波田須町460-1
紀伊牟婁 産田神社「伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智命」三重県熊野市有馬町814 神田では徐福が伝えた赤米が今も作られている。


和歌山県 新宮市 − 末裔 − 徐福の墓、神倉神社、阿須賀神社(徐福宮)、速玉大社、蓬莱山 リンク 大辺路の民話 徐福公園 徐福の墓
 「10人の仲間」から提供を受けた徐福の絵

新宮市は紀伊半島南端の町、古来、漂着伝承の多い地である。漂着しては他所へ移っていく太平洋の玄関でもあった。
徐福と農業 和歌山県史蹟名所誌の秦徐福之墓の項に
「往昔秦の始皇帝の時、徐福は童男女五百人を率いて、五穀の種、耕作の農具を取揃えて日本に渡来し、熊野の浦にあがりて耕作をなし、童男童女を養育して、その子孫は熊野の各地の長となり,安穏に暮せりといい伝えられている。又、徐福が不老不死の仙薬を求めし地なりと称する蓬莱山は、ここより東方三町(三〇〇メートル)許りの所にあり、樹木繁茂し山杉椀の如く、自ら仙境の観をなす。」とある。

徐福と捕鯨 産業事蹟考には、「熊野捕鯨業は世に聞ゆる所也。相伝う斯業の振興は古書にありて、彼の徐福が当時秦の禍を避けて遠く日本に航し、紀州熊野浦に着し、初めてこの地に於て捕鯨の業を行い、是より後漸く本邦各地に伝播するに至れりと称す。」とあるが、この説果して実ならば、捕鯨業は秦代徐氏の遺法にして、我が国に於いては、 紀州熊野を以て開始とするは全くいわれなきに非ず。而してその捕鯨の歌は、
 ”大島原からよせくるつち(槌鯨)を 二十艘秦氏がさしてとる〃
とあり、本邦に於て秦姓を冒す者は、総て秦氏の末族といういい伝えあり。 然からば徐氏も秦の人なれば、この歌の中の秦氏とは或は徐氏のことと言いしものならんかとあり、挿鯨の術を以て徐福の遺法なりとなすは古さ伝鋭なり。」とある。
 近隣の捕鯨の基地として有名な太地町は、秦地とも書く。

徐福紙 養老四年(720年)に、熊野徐福伝の唐紙様の紙を献じたと記されている。 江戸時代の見聞録に「上古秦の徐福日本へ渡り来りて熊野に在住し、紙をも教え漉かせて用いたり。」とある。

紀伊続風土記 徐福の墓は、永山の東、上熊野地の申の方田中にあり。その地を楠の薮という。 旧楠数株あり。今皆枯れて朽ちたる株あり。・・豊臣家康長年間、新宮速玉大社修営の棟札に「築徐福之墓逮千古之名書如王始皇之 曽弁万世之徳」とあり、又寛文雑記に楠薮の地は徐福の廟なりと申し伝うとあり。同記に新宮の末社を書きし中に徐福祠あり、南龍公の時、碑を此の地に建てられ碑面 に秦徐福之墓という五字を刻めり。近き頃新宮城主水野忠央、碑を立てて徐福の事を書せり。

紀伊牟婁 阿須賀神社「事解男之命」新宮市阿須賀町 徐福宮「徐福」
徐福公園 新宮駅前 徐福の墓、七塚の碑、秦徐福碑

和歌山県 那智勝浦町 熊野那智大社 リンク徐福廟を訪ねてin那智山

那智大社から見下ろす「那智山 奥の院」に徐福像ばかりか徐福廟、そして関帝廟がある。


高知県 佐川町 − 虚空蔵山 −−  リンク 徐福と天台烏薬
徐福の一行は暴風雨にあい、土佐の宇佐に漂着して、虚空蔵山に登ったと言う。 山頂で鉾をかざして故国を偲び、柴を折って一夜の夢を結んだが、仙人には会えずむなしく帰国したと言う。
佐川町史には、徐福と張郎の二重臣を東海に派遣、佐賀に上陸したが霊山が見あたらず、再び東海を目指したが暴風雨にあい、張郎の鷲翔丸は須崎浦に漂着した。土地人に教えられた蓬莱山に登ったが仙人には会えなかった。徐福の一行は紀伊の国熊野に上陸し、ここを永住の地と定めた。
戦国時代の四国の覇者長蘇我部氏は徐福の子孫であるとする旧記を残している。これによると始皇帝六代琉孫が来日、信濃に居住し、秦徐福と号したと言う。


宮崎県 宮崎市 − 芳士 −紫尾山 −−  リンク 不老不死の仙薬
宮崎市住吉の海岸近くに芳士と言う地名が残る。
徐福は北九州に上陸したが薬草は得られず、日向の海岸にやってきた。そこで砂丘上にて大きく美しい草を発見し、それが求める薬草だと思って、帰国し始皇帝に献上した。 それはハマユウであり、薬効はなかった。再び3000人を率いて日本にやってきた。その後天台烏薬を発見したが、これも不老長寿の薬ではなかった。 本国に帰るのを断念し、熊野に留まった。新宮市である。

宮崎県 延岡市 − 徐福岩 − 方財島 − リンク 徐福岩 in 始皇帝派遣の船漂着
 延岡市の八幡神山のある今山を蓬莱山と称している。徐福岩はその西南に地上僅かに一角を出している。

日向臼杵 今山八幡宮「品陀和氣命、息長帶姫命、玉依姫命」宮崎県延岡市山下町1-3875
蓬莱山善正寺
日向臼杵 方財神社「大己貴命、蛭子命、磐長姫命、大海童命」宮崎県延岡市方財町167


瀬戸内海

岡山県 倉敷市 浅原 1573 − 浅原の安養寺 −リンク     徐福の寺 朝原山 安養寺 
 倉敷市の北境に標高300米ぐらいの山々が連なる。その主峰福山の中腹に浅原安養寺が鎮座。


広島県 宮島町 厳島   
岡崎環様から以下の慎重なお考えのコメントを頂きました。「徐福に関しては、近世の広島藩の地誌『芸藩通志』に、厳島の地名「蓬莱」に関する漢詩が掲載されています。 蓬莱岩といって、島の最北端の海岸近くの海にある岩で、名勝地とされている所です。 この岩を詠んだ詩で、そのいわれはまさしく徐福の渡来に由来しています。 しかしながら、どうも近世の漢学者による付会とも考えられ、本当のことはよく判りません。」とのことです。

安芸佐伯 厳島神社「市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命」広島県佐伯郡宮島町1-1


山口県 上関町 祝島 リンク 蓬莱の島祝島

そしてついに徐福の遺跡を発見したという。2番目に高い山にその石はあったという。石の表面に「碁盤の目」が描かれている(左写真)。徐福がこの島に住みつき、囲碁を楽しんだというのであるあちこち訪ねて。

東シナ海側

鹿児島県 種子島 − 夜光貝 −− リンク 種子島は(徐福が行った地とも言われる)亶洲ではない in 海から日本列島
大陸での貨幣に使われた貝である。徐福伝説とのつながりは不明であるが、広田遺跡出土の貝符に「山」と言う字が刻まれており、 これは「仙」の略とされている。(『森浩一著 考古学と古代日本』)


鹿児島県 屋久島 − 薬草 −−

鹿児島県 坊津町 −−  

鹿児島県 串木野市 − 冠岳で封禅の儀  リンク 冠岳での封禅伝承は 徐福の建国と王就任の儀式だった 
三国名所図絵 冠岳は地頭館より寅の方二里許り、串木野村の上名にあり。西岳の形、風折烏帽子に似たり、故に冠岳と称す。 又、一説に孝霊天皇の御宇、秦の徐福来て、玉冠を留めし故に冠岳と称す。徐福此岳より紫尾山に至り、又去って紀州熊野に至る。皆熊野権現の祠を建つという。此説真偽知るべからずといえども、旧記に従って是を記す。

薩摩日置 冠嶽神社三座 東「櫛御毛野命」中「予母津事解男命」西「速玉男命」鹿児島県串木野市冠嶽


佐賀県 杵島郡 山内町 − 童男丱女の岩 − 黒髪山、秦阿房宮磚硯出土
秦阿房宮磚硯が出土したとされるが、清代のものとの報告がある。

肥前杵島 天満宮「菅原道眞、武内宿禰」佐賀県杵島郡山内町大字犬走3358 徐福とされる石神があり土台には徐福社と刻む。


佐賀県 杵島郡 有明町 − 稲佐神社 − 稲佐山 −− リンク 古代の佐賀平野と有明海 by 古田史学会報
徐福が不老不死の薬草を探しに来たとの伝承が残る。

黒髪山
 竜王崎石碑徐福が日本に最初に着いた所が伊万里の波多津で,上陸して黒髪山→武雄の蓬莱山→杵島三神山→白鷺温泉→稲佐山→竜王崎ー(船)→寺井津→金立山 と陸路を仙薬を求めて探し歩きました。海童神社にある石碑の裏面には,この地に徐福が来たことなどが書かれています。このように徐福たちが陸路を歩いて竜王崎に着いたとする説とは別に,有明海に入った徐福船団が最初に着いたのが竜王崎だったとする説があります。(佐賀県杵島郡白石町)
 薬草を見つけることができなかった一行は南下し黒髪山に登りました。標高516mの黒髪山は山岳信仰の霊場とされてきました。徐福一行はこの山に入って黒髪山頂上にある天童の岩周辺で仙薬を探し求めました。しかし,ここでも見つけることはできませんでした。

伊万里黒髪山 佐賀の徐福伝説
 佐賀県に伝わる『金立山物語』によると,BC219年,徐福は若い男女500人らとともに大船20隻で出航しました。大陸をあとにして数日の航海の後,一行がたどり着いたところが九州北西部の伊万里です。徐福たちは伊万里湾を見下ろす不老山に仙薬を求めました。
飛鳥ネット
肥前杵島 稲佐神社「天神、女神、五十猛命」佐賀県杵島郡有明町大字辺田



佐賀県 武雄市 − 蓬莱山 − リンク 徐福  
蓬莱山の伝承地が残る。

佐賀県 諸富町寺井津 − 徐福上陸地標 − 浮杯新津 − リンク 佐賀県諸富町と佐賀市の徐福伝承
上陸地を盃を浮かべて占ったと言う。ここから金立山を目指したと言う。

肥前佐嘉 新北神社「素盞嗚尊、菅原道眞、金立權現」佐賀県佐賀郡諸富町大字為重1080 金立神社の下宮 


佐賀県 佐賀市 金立 − 金立神社と下宮(保食神、罔象女命、秦徐福) − 千布 
上陸後、進んでいくと沼沢が続き、歩行は困難であった。そこで千反の布を敷いてその上を前進した。千布と言う。案内は玄蔵と言う人で、玄蔵井戸が残る。
玄蔵にはお辰と言う娘がいて徐福の身の回りの世話をしたが、徐福がこの地を去ったので、前途を儚んで病死したと言う。お辰観音の由縁である。
金立山縁起記 大明国秦始皇帝の第三王子が徐福太子とする。始皇帝は、蓬莱島に金山があり、遠くの国にまで輝いている。この山に不老不死の薬がある。徐福にこれを求めさせた。 王子が海を渡らんとしたが島に毒蛇があって人を食う。徐福はこれを殺害して蓬莱島に至る。蓬莱とは日本、金山とは金立山である。 更に徐福は一部を残して、紀州・富士山に至った。

肥前佐嘉 金立神社「保食神、罔象女命、奏徐福」佐賀県佐賀市金立町大字金立3415
肥前佐嘉 金立神社下宮「保食神、罔象女命、奏徐福」佐賀県佐賀市金立町大字金立2467

千布を敷いて北上(佐賀市)

 徐福は蓬莱山に似ている金立(きんりゅう)山に向けて出発します。しかし、道は荒れ、歩くのに困難な状態でした。そのため布を敷き歩きやすくして進みます。現在の佐賀市金立町千布に達した時、ちょうど千反の布を使いきったので、この地域を「千布(ちふ)」と呼ぶようになったといわれています。

佐賀お宝
 伝説によれば、秦の徐福は孝霊天皇代、一族数百名をつれ渡来し、有明海の浮盃津に上陸し北行したが、到る処に蘆が茂り湿地が多く布を敷いて進み、今の千布まで進んだとき千反の布を使ったので、千布というようになったという。今千布の北外れに玄蔵松と呼ぶ松が生えている。たびたびの災害で植え替えられ今は小さい松であるが、ここは徐福一行が案内役を探し求めたとき野良仕事をしていた百姓玄蔵を発見したところといわれている。

お辰との恋物語(佐賀市)
 徐福は、土地案内を頼んだ源蔵の娘お辰と恋仲になります。しかし、徐福が金立を去るとき「5年後に戻る」との伝言が「50年後に戻る」と誤って伝わったため、お辰は悲しみのあまり入水したと伝えられています。金立神社のお辰観音はこの悲恋に由来するものです。



佐賀県 佐賀市 − 徐福 −  リンク 佐賀徐福プロジェクト

佐賀県 富士町 古湯 − 鶴霊泉 −リンク 名湯古湯温泉

佐賀県 神埼郡 吉野ヶ里遺跡  リンク 吉野ヶ里遺跡と徐福伝説
この遺跡のさまざまな配置は封禅の儀に当たるとの指摘がある。


福岡県 八女市 − 童男山 − リンク 童男山古墳−徐福の墓か−
童男山古墳


福岡県 筑紫野市 天山 − 童男丱女の岩(船繋石) −− リンク 船繋石と徐福伝説 by ちくしの散歩


半島側

韓国 済洲島 徐福通過遺跡(西市過此) リンク 倭を解く鍵 徐福資料集 in 木屋の資料館3.1

韓国 巨済島 徐福通過伝説

韓国 南海島 徐福通過遺跡(徐市起礼日出) リンク 韓国の徐福伝説


韓国 古代の辰韓には伝説は残っていないが・・・
紀元前2世紀末から4世紀まで半島東部に辰韓と言う国があり、秦の圧政から逃れてきた人々が馬韓の支援を得て建国したと伝わる。秦氏の出身地ともされている。
 この地域には徐福の伝承は全くなさそうであるが、韓半島本体にはどこにもそのような伝承が残っていない。戦乱の中で過ごしてきたので、伝承が途絶えたと見ることができる。半島内の抗争は現代まで続いている。見苦しい民族性と言えよう。

大陸の伝承「列仙全伝」から古代の日中交流(その源流を探る)から
秦の始皇帝のとき、どんな毒だかわからないけれども、毒にあたって死ぬ人が続出し、道路も死骸で一杯になってしまった.すると、烏に似たような鳥がどこからともなく飛んできて、口にくわえてきた草を死人の顔の上におく。おかれた死人は、しばらくするとみな生き返る。 ふしぎに思った姶皇帝が、その草を持っていかせて鬼谷先生にきかせると、それは海中にある十洲中の祖洲の田に生えている養神芝という不死の草で、一本でひとりを生き返らせることができると教えた。 そこで始皇帝は、徐福を派遣して祖洲にいかせたけれとも、何年たっても連絡がない。ついに、生死のほどすらわからなくなってしまった。
そののち、沈羲が仙道の奥儀をさわめたときに、徐福が太上老君の使者として、白虎のひく車にのってかれを迎えにきたので、人びとは初めて徐福は神仙になったのだと悟ったという。 また、時代は下って唐の玄宗の時代に、奇妙な病気が流行したとき、海中に住むひとりの神仙に祈ればどんな難病でも治るという伝えによって、一群の人びとが舟にのって出かけ、ある島にいったところが、群衆に囲まれてひとりの老人がいる。 きくと徐福だというので、丁重に頼むと、快く承知して治してくれた。そのうえ、帰りに黄色の薬をくれたので持ち帰り、病人にやったら、みな立ちどころに治った。

大陸側の伝承地 *2

リンク 中国戦国時代の国々と徐福の故地・斉の徐福村(徐郷県)の位置)

江蘇省連雲港市  徐福廟 韓楡県萩水海港出航遺跡

韓楡県馬[立占]郷小王坊村  徐福船団造船遺跡

黄県郷城鎮東村  徐郷城故城遺跡

山東省竜口市城東郊  徐福船団出航地

黄県羊嵐郷黄河営村  徐福船団出航遺跡

浙江省 慈渓市達蓬山  リンク ??大学学士学位?文

青島市 煙台龍口徐福廟 リンク  煙台龍口徐福廟

琅邪港  リンク 瑯邪台 出航遺跡、始皇帝接見地


航行中の徐福 錦絵


参考書  *1 馬の文化と船の文化(福永光司)人文書院 
      徐福集団渡来と古代日本(いき一郎)三一書房
      ロマンの人・徐福(奥野利雄)前新宮市歴史民俗資料館長 0735-21-5180
      *2 弥生の日輪(飯野孝宥)
      道教の神々(窪徳忠)講談社学術文庫
      
安曇族と徐福の接点]

2012.2.2


神奈備にようこそ