大阪市東淀川区大桐 its-mo 交通案内 祭神 由緒 神社庁:平成祭礼データCD(大隅神社略誌)から その後安閑天皇(五二五年)秋九月、勅してここに牛を放牧せられた。後鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献進したので、御平癒の後、乳牛牧の地名をたまわった。 応神天皇の崩御の後、里人帝の御徳をしたい、宮址に神祠を建てて、帝を奉祀したのが当社の起源であるといわれている。爾来当社はこの地の産土神として尊崇せられて来たが、一度淀川が氾濫した際、加茂明神の御神体が漂着して霊光を放った。里人は喜び迎えてこれを産土神祠に合祀したものと思われる。これより社名を賀茂神祠と改め、社殿を二つに分けて、一つには別雷大神を奉祀し、一つには従来の応神天皇の他に伊邪那美神・天照皇大神・素戔嗚尊・豊受毘売神・天児屋根命・大山咋命・菅原道真公の八柱の神を合祀しその名を伊邪那美神社外七座社と称した。即ち前記境内八座社である。 昔は境内が広く、老杉古松繁茂して森厳な神域をなし、社殿もまた壮麗を極めたが、天文十八年(一五四九年)の江口合戦、さらに元亀・天正の騒乱を経て、慶長・元和の大阪の陣に至るまで、幾多の戦乱を経過する間に、当社も兵火に焼かれて頽廃し、多くの貴重な古記録や社宝も失われた。加うるに、元禄年間には神木が乱伐せられて、社頭荒涼の観を呈するに至ったが、宝永四年(一七〇七年)、宮寺曹洞宗大道寺の社僧大順これを嘆き、強く村人達の協力を得て漸く拝殿を再興した。その後文政十年(一八二七年)にはさらに本殿の補修が行なわれたが、その頃東西五十二間・南北六十三間(三二七六坪)あった境内地は、明治初年に行なわれた境内地の払下げによって、四囲ことごとく民有地となり、今はただ昔日の面影を留めるのみとなった。 明治四年、旧に復して応神天皇を主祭神とし社名も大隅神社と改められ、明治三十七年には幣殿を設け、拝殿を再興改築した。明治四十年六月二十日、大阪府告示第一八三号をもって神饌幣帛料供進社に指定せられた。 大隅島『馬.船・常民』隼人と馬(森浩一氏)から抄
『日本書紀』安閑天皇の条に大隅島に牛を放つという記事がある。淀川水系と海との交通手段の接点に、意識的に牛を飼育していた。おそらくは淀川を大きい船が遡上する際に、川の横の道を利用して牛や馬に曳き上げさせたのであろう。 お姿 お祭り 『馬.船・常民』網野善彦、森浩一(講談社学術文庫) |