機物神社(はたもの)
交野市倉治1−1−7 its-mo

七夕祭の参道


交通案内
JR学研都市線津田 南へ1kmもどる



祭神
天棚機比売神、栲機千々比売神、地代主神、八重事代主神
『交野市史』 漢人庄員(はじめてこの地に機織りの技術を伝えた)



由緒
 交野ヶ原の中央に鎮座、奥宮は交野山。長岡京はこの社の真北に設けられた。
創立年代は明らかでない。
秦氏の斎祀る神社であったので、秦者が祀るから転じて機物となったと云う。 交野ヶ原北部の枚方(平方は鉄を延ばしたものを云う)の病院長がナースの招聘に関して西安(昔の長安)を訪れた際、現地の医者が往古、この地(西安)より漢人が交野の里へおもむいたとの言い伝えが残っていることを紹介されたそうだ。 これはおそらく4世紀後半から5世紀にかけてのことではないかと思われる。養蚕技術を携えて渡来した人々が住み着いたのであろう。
神社の鎮座地は冬至の日に神奈備山である交野(こうの)山の頂上から太陽が昇り、日の出の直前に交野山の背後に白道ができるそうである。

なお、交野ヶ原は交野物部の領有する地域であった。渡来人の集団を束ねていたのであろう。後、物部氏の衰退によって蘇我氏系の東漢一族がはいったようである。

社殿


交野ヶ原は七夕伝説が語られる。伝説にちなんだ地名も多い。天の川、星田、牽牛石、織姫を祀るこの神社などが著名である。 七夕が文献に登場するのは紀元前770年〜前402年の春秋時代の『詩経』である。


天に漢(かわ)有りて 亦光有るを監(み)る
彼(かなたに)跂(か)かる織女は 終日七襄(ななやどり)す
七襄すと雖(いへど)も 報(くりかへ)し章(あや)は成らず
かがやけるかの牽牛は 服箱(はたもの)を以(もち)いず

お姿
  長い参道を行くと赤い社殿が鎮座している。宝永五(1708)年の建造である。

七夕祭の社殿


神奈備山の交野山(こうのさん) 頂上に観音岩



交野山の観音岩




交野山の観音岩



お祭り

 例祭   7月 7日(七夕祭)  秋祭  10月16日


「七夕」と「道教」との関係

既に後漢では牽牛・織女の伝説があり、この二神に願掛けをする習俗も生まれていたそうだ。奈良時代の我が国にも伝わっていた。
 織女は西王母が変化したものという。西王母はチャイナ古来の織物の神として知られている。『山海経』には「玉山に住む西王母は人の形だが、尾は豹、歯は虎の要に鋭く、ざんばら髪ながら玉のかんざしをしており、よく嘯き、天の災いと五刑をつかさどる。」としている。おそろしい神でもある。西王母は日本でいえばイザナミの命に相当するのだろうか。西王母は、黄帝が蚩尤と争い苦しめられた時に九天玄女を遣わして助け、後に清静無為の道を授けたという。こうなると織物も考えると天照大神の役割に近いようだ。

 短冊に願い事を書くのは平安時代以降の風習で、これを燃やして煙として天に届けるのは、道教寺院の道観でお札を燃やす風習を思わせる。

           −『日本史を彩る道教の謎』から−
 


暢気なタオさん

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