呉服神社(くれは)
大阪府池田市室町7−4


交通案内
阪急宝塚線池田駅 南西すぐ its-mo



祭神
呉織媛 配 仁徳天皇

摂社
天萬宮 菅原道眞
伊勢神宮 天照皇太神、豐受大神
稲荷社 瓢箪山稻荷大明神、初瀬稻荷大明神
六神社 山神三神、海神三神
 (市杵嶋姫命 大物主命 大國主命 素盞嗚命 國常立命 猿田彦命)
祓戸社 氣吹戸主命
恵美寿神社(えみすじんじゃ)事代主命

神社前の風景




由緒
 伊居太神社を名乗る穴織神社と一対の神社であり、秦上社に対する秦下社であり、坂上氏の後裔氏族以前の秦氏の齋く神であった。  

神門と拝殿

由緒 平成祭礼データ

呉服神社の御縁起
人皇第十五代応神天皇の御代に、猪那津彦命(阿知使主)を中国の呉の国に遣わし機織裁縫の工匠をお需めになりました。その時久礼波、久礼志の二人を案内役として呉の国に赴き呉王に乞うて呉服、漢織、兄媛、弟媛の四人を伴い渡来する事になりました。帰路九州の筑紫潟に着きましたが兄媛、弟媛は胸形明神のお望みによりこの地にお留りになり他の媛は摂津の国武庫の浦にお着きになりましたので猪名の港(今の唐舟ケ淵)に機殿を建て呉服媛をお迎えいたしました。呉服の神女は昼夜怠りなく布を織り少しも倦み給う事がなかったと申します。この時より、機織裁縫染色の技術が我国に伝わり、男女寒暑の服装の別が定りました。尚、四季には上妙の衣服を天子に献じ、万民に施されたのです。仁徳天皇の七十六年(三八五)九月十八日、呉服の大神は御歳百三十九才という人生に倍するご長寿を以て、お隠れになりその御遺体は今にその跡を残す梅室、御形見なる三面の御神鏡は姫室にお納め申し上げました。その翌年、仁徳帝の勅令を以て御神祠をお建てになりました。この大神が糸を様々にお染め分けになった所を染殿井と称し、その糸を掛け晒しになりました数本の老松を衣懸松と名付けその跡は今も残って居ます。大神の御託宣に
「我は衣服の神となり人をして寒暑の憂なく、養蚕機織絹布裁縫の道を守護し、かつ船路遥かにこの日本に帰化せし故海上の難をも無からしめん」
とあります。代々の帝、殊にご崇敬篤く、円融天皇の御代には鎮守府将軍源満仲公が社祠を修復、下って後陽成天皇の御宇には豊臣秀頼公が片桐且元を奉行に命じて再建の事があり、文政二年には有栖川宮殿下の御勅祈願所となりました。
以上


拝殿


社殿



お姿
  池田駅から南西すぐの町中に鳥居が建っている。 暫く町を行くと神門が見えてくる。隣は幼稚園の横の公園。 摂社の恵美寿神社の看板が目立つ。関西はエビス信仰が盛んな土地柄。




お祭り

 7月18日 夏季例祭 10月18日 秋季大祭



神奈備にようこそ