太田神社
茨木市太田3-15-1 its-mo

交通案内
阪急茨木市駅からバス 太田三丁目 伝継体天皇陵西

祭神
素盞嗚尊、天照皇大神、豐受皇大神 配 少彦名命

鳥居と拝殿

平成祭礼データの由緒
 『播磨国風土記』には飾磨の郡大田の里について以下の記述がある。
 大田と称するわけは、昔、呉の勝[クレノスグリ]が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。

 紀伊の大田は、伊国名草郡、今の和歌山駅南側、日前国懸神宮の西側に大田があり、太田黒田遺跡の所。
 以下、『あかねさん』の神奈備掲示板への御投稿(H13.4.189)から引用させて頂きます。 摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の「太田村」は茨木市の島下郡とされ、「太田神社」は呉の勝の末裔集団を統融合して、「中臣太田連」という氏族を形成し、 6世紀以降?に中臣の祖神天児屋根を祀ったそうですが、呉の勝が紀伊から太田へ移住したのは、地元(播磨)の郷土史家によると古墳時代以前という説もあり、 太田神社には大物主の息子で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残ります。
 で、阿為神社の本来の祭神は、建甕槌神を鹿島の多氏がこの地に奉遷したそう。
 尚、茨木市太田東方には、弥生後期〜古墳時代中期の「太田遺跡」もあり、竪穴住居跡、大量の埴輪、鉄製利器・須恵器・銅鐸などが出土してます。また川西市(多田銀・銅山)と葛城の「多太神社」と、茨木・太田神社は大田田根子を祀る点から関係あるようです
 『あかねさん』の引用終わり。ありがとうございます。文責は瀬藤にあります。

 『大阪府史蹟名勝天然記念物』から
 土俗大神宮と称せり。西南字太田山にあり。創建の年月不詳。 播磨風土記には呉勝の裔として、太田の原を帰化民族とすれども、新撰氏姓録摂津神別に中臣藍連同神(天兒屋根命)十二世孫大江臣之後也、中臣太田連同神十三世孫御身宿禰之後也、とあり、而して安威、太田、耳原等の土地相接して存するを見れば蓋しこの太田連が其の祖神を祀りしものとなるべし。
 これから見ると祭神は天児屋根命と云うことになろうか。

お姿
 伝継体天皇陵にのっかって鎮座。周辺にまで住宅がせまっているが、境内は広く涼やかである。木々も豊か。

本殿

お祭り
 春祭  5月10日
 例祭  12月10日



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