田坐神社(たざ)
大阪府松原市田井城大字東口 ゼンリン


交通案内
近鉄南大阪線布忍駅下車 東へ1km



祭神
依羅宿祢、呉服漢織の女神 または 豊宇気毘売神


由緒
  雄略十四年に呉織漢織に携わる人々が呉の国より渡来、住吉浦に泊り、勅して丹比の田坐の地に置かれた。この地で桑を植え蚕を飼い絹糸をつくる。 依羅宿祢がこれを管す。とある。
 新撰姓氏録には依羅宿祢は日下部宿祢同祖 彦坐王の後、依羅連は饒速日命十二世孫、壊大連の後也 と出ている。

 神社境内に立派な由来を彫った石碑が建っている。これによると仁徳天皇の行幸の際、綾織を見られてその折り殿舎仮宮のゆわれより田坐と称す。我が国の養蚕製糸の発祥の地と記載されている。

 教育委員会の説明板には、中世、石清水八幡宮の田井荘となった。このことからか村人は八幡神を祀るといわれていた。 和名抄には河内国丹比郡田邑に鎮座、田の中に存する神、田に坐す神から神社名になったものと記してある。



お姿
  新しい社殿が出来ている。社殿背後の楠木が見事である。周辺は住宅地で遠くからでも社叢が見える。

 さて、田坐神社は柴籬神社に合祀されてしまっているのだが、元地で村人はこの神社を祀ってきている。 布忍神社の宮司さんに聞いた所、この南河内の人々は神仏への崇敬の気持ちは篤いとのことである。

お祭り


 

 丹比柴籬神社
松原市上田7−12 its-mo




交通案内
近鉄南大阪線松原駅下車 南へ800m



祭神 反正天皇 配 菅原道真、依羅宿祢



由緒 平成祭礼データから
  [正殿] 菅原真公[相殿] 依羅宿彌(相殿)
当社は二十四代仁賢天皇の勅命により創建され後世慶長年中に兵火により焼失、その後寛永年中に宮代代宮寺観念寺二代目住持覚夢(寛永四年没)によって再建され今日に至っております。
 第五十六代清和天皇の貞観六年(八六四年)には、奉幣を給はり、観応二年(一三五一年)足利直義が祈願参詣し戦国時代の河内国守護畠山氏も信仰篤くして当社を保護し、旧幕府時代には京都御所より菊花御紋章一連を賜り、江戸時代にはあの浮世草子で名高い井原西鶴も再三再四参拝して、当宮の狂歌を数々残し、明治二十二年には政府より神饌幣帛を給ふ指定があるなど非常に歴史古くして由緒深く尊い宮であります。
 昔は一時広庭神社及び天満宮と称した頃もあり。神仏混合のときには、境内に神宮寺広場山観念寺もあり、明治五年神仏分離により廃寺となり、同寺の釣鐘は上田の願正寺に移り、本尊十一面観世音は上田の観音堂に移転し、僅かに神宮寺の往時の姿を止むるものとしては、今の南門のみであります。


手前の祠が式内田坐神社



お姿
  本殿に向かって左側に田坐神社の小祠は置かれている。楠木が見事である。松原市の市木である。



お祭り
 夏祭り  7月19日 2日間
 秋祭  10月19日 2日間

公式柴籬神社
神奈備にようこそ