空海と稲荷神
 

前世での出会い

 稲荷の契約 

  弘法大師空海は前世に天竺におられたことがある。天竺で大師は、お釈迦様(釈迦牟尼世尊)の説法を聴かれました。その時、稲荷明神も同座されていた。そこで二人は話をされた。弘法大師が言うには、「自分は日本に生まれて、真言密教をさかんにするから、稲荷さんよ、あなたは日本に来て自分の比める真言密教を護ってくれ、頼みます。」と、このように頼まれた稲荷さんは、「よろしい、わかりました。」と言うことで、そこで二人は契約をなさったというわけです。
 
 

紀伊田辺の伝承

 真言宗御室派・高山寺

 弘法大師・空海は弘仁7(816)年、熊野詣での途中、紀伊田辺に滞在しておられた。
 お大師様は身長2メートル40センチ、女性二人と子供二人を連れ、稲を担いで杉の杖をついた、何とも言えない怪人物に出会ったのです。その大男が、「ワシは稲荷神だ。あなたとはすでに唐土で面会している。これからあなたの佛法興隆事業をお手伝いしようと思う。」と、言った。

高山寺

 お大師様もたぶん驚き半分、感謝半分で、「確かに貴方とは先年、私が唐に留学していた時お会いした記憶がある。私の佛法興隆事業をお助けくださるのはたいへん有り難い。実は私は今、京都の東寺で、わが国に密教を興隆しようと考え、大事業に着手したところで、ぜひ貴方のお力をお貸し願いたい。ついては、ぜひ京都の東寺までおいで願えないだろうか」。
 お大師様とお稲荷様は東寺での再会を約束してその場を別れられたという。

 稲荷神社(伊作田)

 田辺市稲成町1124番地。
 (主祭神)倉稲魂神 稚産霊神 保食神 伊邪那美神 他2神 
 創立年代は不詳であるが、社伝によると鎮座は、弘法大師が熊野社参の弘仁年中(810―824)という。『紀伊続風土記』は旧湊村(近世の田辺町紺屋町)の稲荷社を当地に移したと記す。また『神社明細帳』は、神武天皇の御代の鎮座と記す。いずれにせよ往古の創立を語るもので、崇敬されていた神社である。

稲荷神社

 室町時代、明応9(1500)年の棟札には「阿羅毘賀大明神」と記され、元亀年中(1570―1572)に稲荷大明神に改称、同2(1571)年の棟札に、初めて「稲荷大明神」の名がみえる。


伏見稲荷と空海

 伏見稲荷大社と空海

 伏見稲荷大社は弘法大師空海が816年、稲荷山三箇峯から現在地へ勧請したとの伝えがある。現在地には藤森神社が鎮座していた。

 紀州の老人、稲を背負い、杉の葉を提て、両女を率い、二子を具して東寺の南門に望みたまう。とある。稲荷と紀の国とのかかわりは、有田市糸我町中番の稲荷神社が、第27代安閑天皇(西暦531−535)の二年乙卯の春に稲荷神が降臨しており、 最古の稲荷と言われている事、高野山を開いた空海は元々の日本古来の神々への信仰を持ち合わせていると同時に、巧みに利用したように思える。
 「茶吉尼天」は仏法のお米の神である。空海が持ち込んだのであろうか。

 


伏見稲荷と円珍

智証大師(円珍)  京都の聖護院に伝わる「熊野本地仏曼陀羅」には、「頂骨隆起して形覆杯の如し」とされる円珍と稲荷の神が老翁の姿で画かれている。これは智証大師と稲荷との関係をあらわし、稲荷の神が三井寺(園城寺)をお守りするとの約束を示す。即ち、伏見稲荷が三井寺の護伽藍神となる、あるいは聖護院の守護神・鎮守神となるようなことを表している。

 また、嵯峨天皇の御代に智証大師が熊野へお参りする途中、紀伊国の田辺の近くの稲羽里で稲荷の神に出会ったと言う話が、『二十二社註式』に出ている。伊作田の稲荷神社が出会ったところとされている。

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