○鳴ノ神ノ社(なるのかみの) 境内 東西四十八間 南北六十四間 禁殺生
本殿兩殿 各 表五尺 妻四尺五寸 兩拝所 各九尺 七尺
廳 御供所 瑞籬
鳥居 二基 清浄池
末社九社
夢神社 四尺 三尺 天照大神宮 春日社
延春明神社 住吉社 稲荷社
風神社 八幡宮
延喜式神名帳鳴神社 名神大 月次 新甞 相甞
本國神名帳正一位鳴大神
村中にあり
一村の氏神なり
當社本國式内相甞四社の一にし最尊し三代實録に貞観元(859)年正月二十七日授紀伊ノ國従五位下鳴ノ神社従四位下ヲとあり後階を加えて正一位ののほり給ふ
鎮座の時代詳ならす
日前宮の舊記い中世国造家より神領若干を寄附し大禰宣を補任し祭祀等は神官の内行事を代官とす
是を鳴神行事といふ
其の後天正(1573)前後の事考ふへき事なし
慶長(1596)の頃より社僧の如き者兩部習合の祭をなし來れるに享保(1716)年中官命ありて兩部を一洗して古典に復し本殿雑舎に至るまで悉く修造せられ神領五石を寄附し新に神職を命せられる
これより日前国懸伊太祁曽神と相列りていと尊き御神なること再ひ世に知られたり
祀神古傳を失へり
按するに国造家ノ舊記に鳴神村は舊忌部郷の内とし康富記紀州鳴神社氏人楯桙を造進の事あり
本国に上古より忌部氏あり事古語拾遺に詳なり
此等に因るに忌部氏の祖神太玉命を忌部郷中嶋といふ地に祀りて氏人奉仕し 朝廷にも殊に尊ひ給ひて相嘗祭に預らせ給ひ祀れる
地の名をもて鳴ノ神社と稱し來れるなるへし
猶其詳なる事は神社考定の部に辨せり
且祭祀雑事等古文書に載するもの下に列す
神 主 武 川 右 近
令集觧の文中日前云々鳴上神己主等の文あれは上世は別に當社の神主あり
其後国造家に属せるに天正兵乱の後其家衰微し慶長の頃より社僧祭祀を恣にせしに享保年中 官命ありて社僧佛堂等を境外に移し新に社殿造営の時村中にて神職の筋目の者を擇ひて當家を神主と定め給へり
其後代々かみ主職たり
祭祀奉幣等
神祇令云仲冬上ノ卯相嘗祭 集觧云 大倭社 中略 紀伊ノ国坐日前国懸 須 伊太祁曽鳴巳上神主等請受官幣帛祭
国造家舊記云十一月上卯月鳴神社御祭惣官在職之間一度参詣行事一人代官也 暦應四(1341)年並應永六(1399)年の記に見えたり
同記曰十月調庸ノ祭 下旬撰吉日
兩宮中言二社伊太祁曽佐須妻大屋鳴神等分也 瀬藤注 佐須は千田の須佐の意か
同記曰二月六日以布為幣 有四手 彼布一端内半分進伊太祁曽鳴神社
同記曰正月七日白馬次第云々三匹獻鳴ノ神社権ノ内人大案主ノ間一人為使 以上應永六年の記に見えたり
同古記曰大神宮恒例テウヨウ「調庸」ノ御祭調へ物の事鳴神の宮絹三匹コトノヲイト「琴緒糸」一絢
雑 事
中原康記永享大嘗會ノ條云兵庫寮神楯桙立之件ノ楯桙紀州鳴ノ神社氏人等相論之經御沙汰之後祝與氏人相合楯一帖充造進
日前宮應永六年神事記曰有鳴神田南人母多年知行上臈 白冠不詳 中臈案主中仁飯酒を以て一年一度饗応之而近年一向關如之仍彼田地二段 小宅郷内
惣衆中出之 自正平十二(1357)年出此地畢面又自十五(1360)年重入久請取此地出代銭一貫文
此外国造舊記永仁三(1295)年検田取帳に小宅郷忌部郷等に當社の田畠若干ありし事を載たり
○鳴武神 境内周九十二間 禁殺生
御祓池 周二十八間 鳴武流 長三十間 幅一間半
社地鳴神社の境内未ノ方に接きて別に區域をなす
社今廃し石を建て鳴武神慶安庚寅の七字を刻めり
国造家寛永記に土人壷ノ御前といふとあり
麗氣記曰鳴武神大明神ハ百済国耆闇大王ノ四女也
日前宮為摂社神祭霊九月二十六日天降リ給フ也
酒壷七飛テ共ニ以降ル
今仁田中鳴神社前ニ臥居ル長一丈或七尺乍七在千今人多見之とあり
按するに麗氣記の言怪誕といへとも其中亦古の事実を伝ふる者あり
土人今に至りて此神を壷ノ御前といふときは麗氣記酒壷の説ありけに聞ゆ
然れは女神とする説も亦或は古の伝へならんか
今村の北の山足に岸根の岩を圓に鑿て壷を埋めたる如き所四五箇所あり
何れも口の径三尺許深四五尺許人功を以て作る物の如くなれとも何の為なるを知る物なし
土人或はいふ古此地より温泉出しならん
其湯壷なるにやとうけかたし
今おもふに是或は麗氣記の酒壷といへる物ならんか猶考ふへし
○香都知[カグツチ]ノ神 境内周六十六間 禁殺生
延喜式神名帳香都知神社
本国神名帳従四位上香都知神
鳴神社の東二町許にあり
社今廃して石を建て香都知神慶安庚寅の八字を彫む
社地域は御船の芝といへり
北の方一町許御供ノ井あり
○堅真音[カタマオト]ノ神 境内周九十間 禁殺生
延喜式神名帳 堅真[カタマ]ノ神社
本国神名帳正一位有馬音ノ大神
鳴神山の麓村の丑ノ方七町許にあり
社今廃す
碑を建て堅真音ノ神享保甲辰の八字を彫む
三代実録に貞観元(859)年五月二十六日授紀伊ノ国正八位上堅真音ノ神従五位上
同七年春正月十七日丁酉紀伊ノ国従五位上堅真音ノ神ヲ列於官社
同八年閏三月十三日戊午紀伊ノ国従五位上堅真音ノ神ニ授従四位下となり此後階を進めて正一位を加へられしなり
當社延喜式に堅真音神とし三代実録に堅真音神とし本国神名帳に有馬音大神とす
又国造舊記に音明神とあり其稱を考るに有馬は地名にして此地は古の有馬郷の地なり
音も亦地名なり
音の地は今有馬村に音浦といへる田地の字にのこれり
延喜式並三代実録の堅真とあるは其義詳ならす
○鳴武神香都知堅真音三神 国命を以て碑を立て遺跡を標し鳴神社の神主をして主祭せしむ