熊野古道、淀川下りへの乗船場、城南宮




 二十八回も熊野御幸をされた後鳥羽上皇はこの地から船に乗って淀川を下ったと言う。 途中、石清水八幡宮に参拝することもあったようである。
 庶民は山崎付近から船に乗った。
 平安時代の上皇の離宮はこのあたりに多く造営された。中世の兵火、幕末の鳥羽伏見の戦い、近年の台風などでその痕跡はほとんど残っていない。

城南宮の朱の鳥居



 鳥居をくぐったところに「熊野詣出立の地」の説明板があり、白河上皇の熊野御幸、鳥羽離宮の精進屋出立、難行苦行熊野詣、蟻の熊野詣の四節に分けた説明が記されていた。実に行き届いたことである。




城南宮・真幡寸神社 京都市伏見区鳥羽離宮町7 its-mo


祭神 国之常立尊、八千矛神、息長帯日売命
 『平凡社寺院神社大事典京都・山城』には みはたぼこ神(はたぼこ:毒の下に県糸)も祀るとある。



拝殿を通しての祈祷殿




 境内に式内社の真幡寸神社(まはたき)が鎮座、真幡寸大神、品陀和気尊を祭神としている。 真幡寸神社は元々藤森神社の現社殿の隣に地に鎮座していたが、藤森神社が伏見稲荷大社の場所から遷座して来たので、西方へ遷座したと藤森神社の社伝にあるとのこと。(『古代神道の本質』山上伊豆母著)
 山城国紀伊郡の秦氏関係の神社にはさまって紀氏ゆかりの神社が遷っている。
 このトコロ天遷座を整理すると、伏見稲荷が藤森を追い出し、藤森が真幡木を追い出したとなる。 これと同様なことが紀の国にも起こっている。日前国懸神宮が伊太祁曽神社を追い出し、伊太祁曽神社が須佐神社を追い出しているのである。紀氏や秦氏はトコロ天が好きなようだ。

摂社 真幡寸神社



『平成祭礼データ』の由緒

由緒 城南宮のご鎮座は、上古、神功皇后(息長帯日賣命)が、軍船にたて給う御旗八千矛 神の御霊をつけて当地に納められたことによる。そしてその御旗の、日月星の御紋章 が即ち当城南宮の三光の神紋の由来である。桓武天皇延暦13年(西暦794)の平 安京遷都にあたり、国常立尊を合祀し、以来都の南方に鎮まり国を守護り給う城南明 神と仰がれるに至った。平安朝の末期白河上皇は、賀茂川流域の水郷の当地を選んで 城南(鳥羽) 離宮を造営し院政を執られたので、一時は都の如く賑わい、中でも秋の 祭礼は行粧華麗に行われた。更に、院や上皇は、熊野を初め物詣でにあたっての方除 けのための御幸や精進所にあてられたことは、当宮の方除け信仰を平安の昔にみるも のである。源平の時代を経、後鳥羽上皇が城南宮の流鏑馬に車寄せての鎌倉幕府追討 の承久の変以来、鳳池荘観を極めた離宮の建築群も次第に衰退し、応仁の乱に至って 全く荒廃してしまった。しかし、城南祭と方除け信仰は後世に承け継がれた。江戸時 代享保6年9月霊元上皇修学院御所御幸に際して、風雨の難無きよう7日間の御祈祷 を仰せられ、文久元年皇女和宮様関東御下向の道中安泰の祈祷、文久3年4月孝明天 皇石清水行幸の途中御休憩御拝あらせられて、菊花御紋章の吹散一旒(ふきちりりゅ う)を下賜せられ、尓来正月5月19日恒例の御代拝が立てられるなど、皇室の崇敬 旧に復すと共に、京洛畿内の衆庶の信仰次第に篤く、「城南離宮社」「方除けの城南 宮」と親しまれた。慶応4年3月明治天皇大阪御親征行幸の途次亦当宮拝殿に御駐輦 親拝あらせられ、大正5年4月貞明皇后石清水行啓の際神苑に駐輿御休憩遊ばされ、 近くは昭和55年3月浩宮様御学友と御入洛の折、御参拝、曲水の宴を御覧遊ばされ た。。明治10年延喜式内真幡寸(まはたき)神社と公定されたが、昭和40年従来 の社号「城南宮」に復している。神威愈々高く、普請、造作、転宅、旅行など方除け の神との信仰益々広く全国に行きわたり、家内安全、交通安全、安産、病気平癒と御 祈祷の参詣者で終日賑わっている。  


 摂社に兵主神社が鎮座している。本殿西に摂社が三社並び、その中央に厳島社、住吉社、兵主社の三社が合わさっている。何故ここに兵主社が鎮座しているのだろうか。上記の由緒では城南宮の創建は神功皇后の頃のように記しているが、白河・鳥羽両天皇の離宮の鎮守として創建されたものであり、やはり秦氏の氏神とされる真幡寸神社に付属していた神社なのか、この地域に祀られていたのであろう。秦氏と兵主、ここでも関連している。

お祭り 
春祭   3月20日
方除大祭 4月第二日曜日
例祭   7月20日
城南際 10月20日 (神幸祭) 



公式城南宮
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熊野古道 大阪府の王子社
熊野古道、九十九王子社
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