藤森神社
京都市伏見区深草鳥居崎町609 its-mo

交通
京阪 藤森駅東側を南へ500m


祭神
素盞嗚命
配祀 別雷命、日本武命、應神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇、舍人親王、天武天皇、早良親王、伊予親王、井上内親王

由緒
 紀氏の祖神を祀ると伝わる。すなわち紀氏は秘密系図では素盞嗚尊からとなっており、奇しくもここの祭神が雄弁にこれを物語る。
 蘇我氏の権勢の強い時代、この地を本拠としていた紀朝臣家はその風下にたっていたが、新興勢力の秦氏を押さえていたようである。 大化の改新で蘇我氏の勢いが削がれで、紀氏も下降線を辿った。いつの間にか、この一帯は秦氏の支配する所となり、藤森神社の社域の伏見山には稲荷神が勧請されていたようである。 社地をかすめ取られている。しかし、氏子までは取りきれず、現在でも伏見稲荷神社の近辺の住人の氏神はここ藤森神社である。

 古伝によれば、中の座には「鉾神、剣神、神功皇后、崇道尽敬皇帝(舎人親王)、崇道天皇(早良親王)、が祀られていたと言う。 「鉾神」とは何であろうか?天日矛であろうか?紀氏が紀の国で齋祀る日前國懸神宮の國懸神の御神体は日鉾の鏡と言う。 おそらくはこの神を祀ったのではなかろうか。なお、物部の祖の宇麻志麻手命も
楯神社、鉾神社に祀られていた可能性もある。
 「剣神」、素盞嗚尊か日本武尊を連想させる。
 仲哀天皇が伊都国におもむいた際、県主が「高麗の意呂山に天降った天日矛の末」と名乗っている。 オロである。素盞嗚尊、五十猛命が降った曽尸茂梨に比定される大白山の事ではないかとも思われる。 また、出雲飯石の大呂神社(おおろ)の祭神に五十猛命がある。出雲仁多の大呂神社の祭神は天忍穗耳命となっているが、出雲の素盞嗚尊五十猛命の原郷でこの神の名は異常だろう。 新羅とゆかりの深い素盞嗚尊ー五十猛命ー天日矛は一つの系列を示しているのであろうか。伊都国と紀氏がこれを解く鍵だろう。

 藤森神社の人物神は御霊神である。平安時代の流行神である。

旗塚



 さて、旗塚がある。本殿東方の石垣で囲まれた高壇に巨樹の切り株に注連縄が巻かれている。 八幡信仰の名残である。紀氏が石清水八幡を祀っていたので、武神として取り入れたのであろう。または紀氏に使えた秦氏が持ち込んだものかも知れない。 当社西方に城南宮があるが、式内真幡寸神社(まはたき)の後裔であり、伏見に稲荷が勧請された時、藤森神社が真幡寸神社の元地に遷されて、真幡寸神社は今の城南宮の地に遷ったと伝わる。 秦氏によるトコロテン遷座である。紀氏は紀氏で紀の国でこのトコロテン遷座をやっている。濱の宮にあった日前國懸神を伊太祁曽神社の元の社地へ、伊太祁曽神社は須佐神社の社地へ、須佐神社は遠く、有田の千田へと遷座している。

由緒  神社庁平成祭礼データCDから
 菖蒲の節句発祥の地
勝運と学問の神社
京都洛南深草の里に、平安遷都以前より祀られている古社にて、古来、朝廷より庶民までの崇敬厚く、歴史ある社である。
本殿は宮中賢所の建物を正徳2年(1712)に賜ったもので、現存する賢所としては最古のものである。その他重要文化財八幡宮社、大将軍社等の建造物がある。
藤森祭は、毎年5月5日に行われているが、この祭は、菖蒲の節句発祥の祭として知られ、各家に飾られる武者人形には、藤森の神がやどると伝えられる。菖蒲は尚武に通じ尚武は勝負に通じるといわれ、勝運をよぶ神として信仰を集めている。
日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王を御祭神としてお祀りしてあり学問の神としての信仰が深い。

本殿(中座)素盞鳴命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇(以上7柱)。東殿(東座)天武天皇、舎人親王(以上2柱)。
西殿(西座)早良親王、伊豫親王、井上内親王(以上3柱)。

本殿は、神功皇后摂政3年(203)纛旗鎮座地。神功皇后凱旋し給うた後山城の国深草の里藤森を神在の清地として選び給い纛旗(軍中の大旗)を樹て兵具を納め塚を造り弓矢蟇目の法を修して神祀りし給うたのが当神社の起りである。
延暦13年桓武天皇より弓兵政所の宝称を授け遷都奉幣の儀式が行われた。東殿は、天平宝字3年(759)藤尾の地に鎮座。永亨10年(1438)藤森に合祀。淳仁天皇天平宝字3年深草の里藤尾の地に祀られ同時に舎人親王に対して崇道盡敬天皇と追贈した。
藤尾の地は今の伏見稲荷の社地である。永亨10年後花園天皇の勅により時の将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を藤尾の地に遷し藤尾大神を藤森に遷座し東殿に祀られ官幣の儀式が行われた。
舎人親王は持統、文武、元明、元正、聖武の5朝の国政に参与され養老4年(720)には日本書紀を撰し又、弓矢蟇目の秘法を伝えられ文武両道にすぐれた御方であられたから皇室藤原一門の崇敬厚く貞観の年(860)清和天皇の宝祚を奉りて官幣の神事が行われた。これが深草祭(藤森祭)の初めである。
西殿は延暦19年(800)塚本の地に鎮座、延応元年(1239)深草小天皇へ遷座、文明2年(1470)藤森へ合祀。早良親王は光仁天皇の第2皇子で天応元年(781)4月1日皇太子にたたれた。当時陸奥では伊治大領皆麿が謀反して朝命に服さず勢力をましてきたので親王は立太子と同時に征討将軍として直ちに軍勢を催し当神社に詣で戦勝を祈願され出陣しようとしたところこれを伝え聞いて忽ち畏怖して乱は平定した。このような英武の御方であられたが延暦4年(785)事に座して淡路に流される途中神去り給うた。延暦19年親王に崇道天皇と追號し塚本の地(東山区本町16丁目)に祀られた。
不幸にしてなくなられた伊豫親王、井上内親王の御霊が鎮まらないので淳和天皇の天長3年(826)正月5日に勅して2柱の御魂を塚本の宮に合祀し官幣の御儀があった。西殿に祀られる3柱の神は斯く荒御魂神であられ朝廷の崇敬も厚かった。
天喜3年(1055)9月27日隣地法成寺より火を失して塚本の宮も類焼し宮殿悉く烏有に帰したが、白河天皇勅して大納言能信奉行して承暦元年(1077)12月2日に再建せられた。
建久3年(1192)後鳥羽天皇菅原故守をして官幣の儀があり。延応元年(1239)には藤原道家が塚本の宮を深草極楽寺南の地に遷して小天皇と称し祀った。
その後応仁の乱に社殿悉く兵火にあったので小天皇の宮を藤森に遷して西殿に祀った。 

たたずまい
 
 緑豊かな広い社域である。

鳥居お社叢


本殿




お祭り

 5月 1日 5日間 春季大祭(藤森祭:神幸祭・駈馬神事)
 6月15日 1日間 紫陽花祭
11月 5日 1日間 秋季大祭(火焚祭)
11月14日 1日間 舎人親王祭(いひとしんのうさい)


京都山城寺院神社大事典(平凡社)、日本の神々5 白水社


「大将軍社」と「道教」との関係

 古代の都の西北に大将軍社は祀られた。 難波宮の西北に明星池があり、現在天満宮に遷されている大将軍社の旧社地である。大将軍とは金星のことである。軍事を支配する太白星とも呼ばれる。 この星の方位によって戦争の勝敗、国家の吉凶、兵乱をもたらすとされる。方伯神として重視された。この星の方角に墓を作ったり、井戸を掘ったり、棟上げなどは避けるべきこととされる。 またその方角に訪ねていく必要がある場合、方違(かたたがえ)として、前日の夕方に家を出て、他の方角の家に泊まり、悪くない方向として目的地に行くことがなされた。

 平安京の場合には四方に四社あったと言う。

        以上参考−『日本史を彩る道教の謎』から−

京都の大将軍神社
西北  大将軍八神社 京都市上京区一条御前通西入る西町
    大将軍神社  京都市東山区三条大橋東三丁目下る長光町
    大将軍神社  宇治市池尾北組
    藤森神社摂社大将軍神社  京都市伏見区深草鳥居崎町
    今宮神社摂社大将軍神社  京都市北区紫野今宮町

        以上 『平成祭礼データ』神社本庁から
 



京都山城の神々

暢気なタオさん

神奈備にようこそにもどる