生国魂神社(いくくにたま)
大阪市天王寺区生玉町
鳥居と拝殿
交通案内
谷町9丁目 近鉄上本町駅より西600m、南へ200m its-mo
地下鉄谷町9丁目西南200m
祭神
生島神、足島神
相殿 大物主命
境内社 鞴(ふいご)神社「天目一箇神、石凝杼賣神、香具土神」
家造祖神社「手置帆負神、彦狭知神」
鴫野神社「市寸島比賣命、大宮賣神、淀姫神」
北向八幡神社「誉田別尊、気長足媛命、玉依比売命」ほか
由緒
神社略記によれば神武天皇が難波津に到着時石山碕(大阪城付近)に生島、足島神を祀ったのが創祀であるとしている。この石山はかっては磐舟神社があり、饒速日命の降臨の地ともされていた。
難波の聖地であった。豊臣秀吉の大阪城建造にともない現社地に遷った。大坂城の追手門は生玉門とも呼ばれていたように西側の追手門の場所に鎮座していた。旧址の碑が立っている。
式内の名神大社で難波坐生国咲国魂神社二座と記されている。宮中では生嶋巫祭神二座として生嶋神・足嶋神としても祀られた。
難波の海辺で行われた八十島祭はこの両神を祀ったもので八十島神とは生島神・足島神である。 この八十島祭では、勅使が天皇の「御衣」を納めた箱を持って難波の熊川尻の海岸で海に向かって「御衣筥」を開き、女官がこれを振り動かす儀礼である。
「振る」のは魂振りで生命の根源である魂を振り動かす事であり、女官が「御衣筥」を振るのは即位直後の天皇すなわち生まれたばかりの日の御子の入った「ゆりかご」をゆらすのである。
ゆらすことで足魂(咲魂)に成長するのである。
八十島祭には住吉神、大依羅神、海神、垂水神、住道神なども祀られた。
社殿
『日本の神々』で、大和岩雄氏は以下のように語る。
日の御子を足魂に成長させる−日足−である。ヒタシと読む。日の御子の養育生育の意である。 舒明天皇は息長足日広額天皇、皇極斉明天皇は天豊財重日足姫天皇である。息長系の天皇の「足」がついている。難波王朝の祖の応神天皇の母である気長足姫尊であり、この王朝はタラシ王朝である。
気長足姫尊の祖である天日槍が持ってきた宝に足高玉がある。足玉の敬称で足魂で足日である。八十島祭は渡来人系の日の御子の誕生伝承で祭場も熊川とされ、この地を現社地とする見方がある。
さて、生国魂、咲国魂の神、これらの神々が何故に生島神、足島神となるのであろうか。単に神武伝承にのっかった祭神としたのに過ぎないようだ。
難波には神武以前の歴史がある。一つは物部氏の歴史であり、さらにそれ以前の天若日子の降臨、即ち鴨族が難波を開拓していた前史があった。鴨族は祭祀氏族ではあったが、その頃には神社の形ではなく、恐らくは石山の磐座に神の降臨を願って祭祀を行っていたのであろう。これが難波坐生国咲国魂神社の創祀であろうが、年代は神代としか言い様はない。
天若日子が葦原中津国を天孫の統治下に置くべく、高天原より派遣されるのであるが、大国主の娘の下照る比売を娶って居着いてしまう。下照比売は稚国玉、高比売の別名を持つとされるが、稚国玉は天若日子の別名であったのを混乱しているのかも知れない。
天若日子が高天原からの返し矢で不慮の死をとげ、葬儀に父神とその妻や子がやってくる。父神を天津国魂神と言う。天孫族の派遣の国魂神のネーミングであるが、これは難波の開拓神として、国魂とされる程に奉じられ称えられた神と言う意であろう。
難波坐生国咲国魂神社の祭神に天津国魂神はふさわしい。また天若日子には稚国玉また咲国魂の名を贈り功績を称えたのであろう。
お姿
南に属する地域に鎮座、周辺にはお寺とラブホテルが多い。東正面の鳥居の近くにまで「ホテル」が建てられている。
スケールの大きいコンクリート製の社殿である。背後には摂社も多く、それぞれがひとかどの神社である。この辺りが神社らしい雰囲気である。
本殿は生國魂造と言う。
摂社 鴫野神社
摂社 家造祖社
摂社 城方向八幡神社(北向八幡)
慶長年中(1596〜)の創建。
武神であり、大坂城ないの士人はここで御射を学んだと言う。
その風習で流鏑馬が行われていた。
北向と称するのは大坂城を守護することに因る。
お祭り
夏祭 7月11,12日
例祭 9月 9日
秋祭 10月15日
御旅所 中央区本町橋 google map
摂津名所図会
生國魂神社略誌
社伝によれば、第一代神武天皇が九州より難波津にお着きになった時、石山碕(現在の大阪城付近)に生島・足島神を祀られたのが当神社御鎮祭のはじまりであります。その後宮中にまつられ、歴代天皇ご即位の際に行われました八十島祭は、この両神をまつられたものです。平安時代の延長五年(九二七)に編纂されました『延喜式』という書物に、摂津国東生郡『難波坐生國咲國魂神社』二座とありますのが、すなわち当社のことであります。
以上 |
『日本の神々』『平成祭礼CD』
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