河内の池の歴史

住所

文献、年月 神社など 備考
久米田池

岸和田市
行基年譜:天平10年(西暦738年)  行基:久米田寺(隆隆池院)
流れ出る天の川沿いに七夕伝説
七夕社「織女星」と犬飼社「彦星」
下流に夜疑神社、祭神に水分神。雨淵池は涸れない。
僧行基と橘諸兄の造営
物部田池と他小池統合
 
戸刈池

羽曳野市蔵内
紀:推古十五年冬 河内国に、戸苅池、依網池を作る。 美具久留御魂神社(下水分神社) 戸刈池には今でもアオダイショウ在。
支子(きし)の茅原で巨蛇が多く出没。
この鎮に神社を創祀。
依網池

住吉区我孫子町
紀:推古十五年冬 河内国に、戸苅池、依網池を作る。
記:仁徳御代 丸邇池・依網池を作り
紀:崇神六二年冬十月
記:崇神御代
大依羅神社、龍神井、庭井 浅い池であった。じゅんさい、蓮。
新大和川になる。
河内志:池内池或曰依網池
感玖の大溝

河南町〜千早赤坂村

紀:仁徳十四年冬十一月 咸古神社 牛頭山龍泉寺鎮守 石河の水を引く。
古市大溝、針魚大溝、住吉掘割に比定説。
針魚大溝は『住吉大社神代記』
灌漑説、水運説。
横野堤

生野区巽太地町
平野川の堤防
紀:仁徳十三年冬十月 横野神社(印色宮:いんじのみや)巽神社に合祀 横野神社巽西3−9に碑
印色之入日子造営説があったのかも。
難波堀江

南森町
天満川か

紀:仁徳十一年冬十月 宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。

記:仁徳記 難波の堀江を掘りて海に通わし

大将軍社(天満宮地主神)星祭(七夕祭)
国際港難波津
あみだ池:物部氏が阿弥陀如来像を投げ捨てた地
サンカ古伝承
灘波の堀江をうがった時、国栖部を立てて、この工事用の箕と笊(ザル)を製造させた。
茨田堤

枚方〜野田村の七里

紀:仁徳十一年冬十月
記:仁徳御代 秦人をえたちて茨田堤及茨田三宅を作り
続:天平勝宝二年五月 京中ににわか雨、所々で決壊
寝屋川市 堤根神社
鞆呂岐神社「茨田蛇の池跡」碑
賽ぎ難き処、武蔵人強頸と河内人茨田錬衫子が人柱に
衫子は河神を疑い、瓢を沈めさせるも沈まず、本当の神ではないと従わず。
高石池

富木駅

紀:垂仁三五年秋九月 五十瓊敷命   和泉志は乙池とする。
茅渟池
血沼池

泉佐野市

紀:垂仁三五年秋九月 五十瓊敷命
記:垂仁御代 印色入日子命
日根神社(大井関大明神)、溝口大明神 和泉志 珍努池今曰布池
小椅の江

東成区鶴橋小橋

紀:仁徳十一年冬十月 産湯稲荷、龍脈説? 猪甘の津、つるのはし  
狭山池溝
狭山池

南河内郡狭山町

紀:崇神六二年秋七月
記:垂仁御代  印色入日子命
狭山堤神社
池中に龍神社
行基:狭山池院
築造は出土品からは7世紀初頭と見られている。
天野川をドンと堰き止めている。日本最初のダム。
豪雨時などの排水に除げ川を要す。西除川沿いに下池。
『続日本紀』天平四年(732)12月17日の条に、「築河内国丹比郡狭山下池」。
下池は、大阪狭山市の太満池(たいまいけ)又は堺市野田にあった轟池(とどろきいけ)。
『続日本紀』天平宝字六年(762)4月、狭山池の堤が決壊し補修の記事。
日下高津池

和泉市の高師池

記:垂仁御代 印色入日子命 聖神社 高師池の誤植説、隣が日下部
誉田陵

羽曳野市

記:応神記 御陵は河内の恵賀の裳伏の岡にあり 誉田八幡宮 日本書紀には記載なし
大山陵

堺市

紀:仁徳六七年冬十月 中百舌鳥古墳群 記:毛受

 池の龍神蛇神
 『常陸国風土記』行方の郡
 池を築き、夜刀の神との領域をはっきりさせた。要は水源地として立ち入り禁止とした。
 戸刈池の美具久留御魂神社、狭山池中の龍神社、龍神が住む依網池。

 池の役割
 稲作用灌漑用水の確保
 宮殿に伴う苑池(天武天皇の白錦後苑(しらにしきのみその)) 祭祀と景色
 入浴をするという目的で作られた池
 飲料水の確保
 汚水処理
水の公平な配分、末端の神社の池に水をひく祭りは祈雨の祭りで途中で水を引き込むことを許さなかった。 雨が降るまで三日に一度はお祭をした。山梨県東八代郡御坂町の美和神社が有名。
夜疑神社雨淵池と久米田池、依網池と狭山池

 行基と五十瓊敷命
 行基の仕事を五十瓊敷命の事績にしていないか。

 古墳の池
 墓だけではなく溜め池の役割があった。
堤には竹が植えられた。(阪手池:景行紀)竹→箸→箸墓?

参考 中央公論社『日本の古代5:前方後円墳の世紀』、角川書店『古代の日本:近畿T』、『式内社調査報告』

鵜葺草史話

神奈備にようこそ