坐摩神社(いかすり)
大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号 mapfan
拝殿と三つ鳥居
江戸時代の『摂津名所図会』では普通の鳥居の絵になっている。
交通案内
地下鉄(御堂筋線、中央線)本町駅15番出口 西南200m
(四つ橋線)本町駅 東南200m
祭神
生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神
境内社 陶器神社、繊維神社 ほか
摂外社 坐摩神社行宮「豐磐間戸神、奇磐間戸神」大隅宮 祝津宮 とも言われる。
行宮は熊野九十九王子社の最初の王子社の窪津王子社の比定地ともされる。
八軒屋の船着き場の近くである。
由緒
いわゆる河内王朝初期の事として「住吉大神の御魂として、為婆天利神あるいは猪加志理神と号すと託り給ひき。よって斎き祇らしめ・・」と住吉神社神代記にあるように相当の古社であり、鎮座地はこの王朝にとっては聖地であった。
生井、栄井(福井)、津長井(綱長井)の三神は井泉の神である。さらに「生成発展」の意味を持つと見られている。
古事記に大年神が天知迦流美豆比売と婚して生みました神の中に、庭津日神、阿須波神、波比伎神が見える。家庭の神、足場の神とされる。
このような井泉神三神と宅神二神を宮中では「坐摩の巫」が祀っている。「延喜式」に坐摩巫は都下の・・とあり、この都下は摂津の菟餓野の事で、現在の天満、京橋、平野の総称である。西成郡である。
「成:ナル」は生成の意味もあるが、太陽の意味もあり、ナニワには日を迎える意味がある。
本殿
さて、この坐摩神社の元の鎮座地で、旧地の御旅所には、「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石がある。すなわち、磐座信仰の地であった。
渡辺橋の近くで新羅江と呼ばれた所である。ここから久太郎町に遷座したのであるが、この久太郎とは百済の当て字であり、往古の浪速の町は渡来人で一杯だったようだ。
『社家舊記』に誉田天皇三年十一月、百済辰斯王叛、遣紀角宿禰、羽田矢代宿禰令伐之、即日於難波沼中祀之、仍為住吉第一摂社」とある。往古一時は住吉の末社または密接な関係を持っていたようである。
大川に架かる天神橋の東南、大隅宮(祝津宮)と言われ、巨石は格子で保護されている。
何故、大隅であるのか、大隅地方では大隅を「うずん」と発音することもあるそうだ。出雲大社の正面の柱を「宇豆柱」というそうだが、この「うず」には祭祀だけではなく、椎根津彦(珍彦)、紀氏の祖の宇豆彦など、おそらく海人にまつわる日本古代史の謎が隠されているのだろう。
難波の宮の発掘に力をそそいだ山根徳太郎氏は応神天皇の宮とされる大隅宮の場所を当地であろうとされている。新大阪の南東の大隅神社鎮座地付近ではないと云うこと。また欽明天皇元年に出てくる難波の祝津宮の場所も当地との主張があるのだろう。
行宮の祠
磐座
かって大阪城ができる前に、この地に、信長が手こずった石山本願寺があり、その前代には四天王寺が建っていたとされる。
この石山の名から想像される様に巨石が多かったようである。
四天王寺は、かの聖徳太子が蘇我・物部の崇仏・排仏の戦いに勝利すれば創建すると誓った寺である。
この寺が建つ前にここには、物部の祖神饒速日命を祀る磐船神社が祀られていたとの説がある。社地を召し上げ、鎮守にしたのかも知れない。
また、下照比売を祀っていた社が、高津へ遷座し、ここで磐船社と呼ばれた事の伝承とも言われる。 その「磐」の名残が「石山」であり、今に伝わる鎮座石あろうか。御旅所はその信仰の流れが受け継がれている証明である。
祭神の波比岐神、阿須波神の内の波比岐は波波木で、蛇(龍)木であり、ここでも、原始信仰のにおいがする。一方波比岐神は灰吹きからの転とし、フイゴの神として古代製鉄の神でもあった。
河内の縄文時代からの聖地であり、縄文人が祖神を祀っていた土地もあったろう。
宮中に「座摩の巫」が祀られている。都下[ツゲ]国造氏の童女をもってこれにあてるとする。
都下は菟餓で、摂津国菟餓は八軒屋で、この社の元地であり、「トガ」は漢音、「ツゲ」は呉音である。迎日・日の出を意味する。新羅の迎日県を都祈野といったそうである。
高安山から見ると、夏至の日の入り、すなわちこの社からは冬至の日の出が高安山頂上ということになり、等之伎神社とは対象の位置に鎮座している。
おそらくは、このトノキもトキ=ツゲに通じるのだろう。
お姿
大阪の真ん中に位置している。しかし流石に境内は落ち着いた趣である。
江戸時代の『摂津名所図会』 鳥居は左下
元々の神社の陶器神社
繊維神社
お祭り
夏祭 4月22日
夏祭 7月21,22日
秋祭 10月21,22日
豐磐間戸神、奇磐間戸神を祀る神社一覧参照
熊野古道、九十九王子社
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